太田述正コラム#10289(2019.1.2)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その22)>(2019.3.24公開)
「潘に関するすべての著作において、影佐は特務の頭目としてのみ扱われているが、実際は、影佐は日本政府のいわゆる「和平運動」の指導者だった。・・・
⇒影佐にとって、それは派生的な仕事に過ぎず、「本務」は、毛沢東との連絡調整であった、と私は見ているわけです。(太田)
<和平運動とは、>日中戦争中、日本と汪兆銘のあいだで行われた和平工作を言う(汪兆銘工作)。
交渉の中心人物は国民政府(蒋介石・汪兆銘連立)外交部亜州司長の高宗武<(注31)>(汪サイド)だった。・・・
(注31)1905~94年。九大法入学・東大学士入学。「1934年、28歳の若さにして国民党政府の亜州司長(日本の「外務省アジア局長」に相当)に就任。」和平工作からの脱落(後出)後、米国に「亡命」し、現地で死去。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%97%E6%AD%A6
⇒「日中戦争2年目の1938年、トラウトマンによる調停(トラウトマン工作)が不調に終わった後、いくつかのルートでの日中和平交渉が水面下で進展していた。「高宗武工作」も、そのうちの一つと位置づけられる」(上掲)ところ、高の日本政府との交渉の山場は、「<同年>7月5日、<蒋介石の命令に背いて密かに>来日<し、>その後21日に日本を離れるまで(来日日、離日日については諸説あり)、・・・影佐禎昭(当時参謀本部第八課長<でその後陸軍省軍務課長>)の導きにより、近衛文麿首相、板垣征四郎陸相、今井武夫参謀本部支那班長などの日本の要人と会談した」(上掲)時でした。(太田)
193<8>年・・・11月20日、汪兆銘側の高、中央宣伝部梅思平<(注32)>らと日本側の陸軍省軍務課長影佐禎昭大佐、参謀本部支那課員今井武夫<(注33)(コラム#3359、8410、10042)>中佐、犬養健<(注34)(コラム#10042)>らとのあいだで和平条件を取り決めた合意事項「日華協議記録」の調印が行われた。
(注32)1896~1946年。北京大学法律科卒。中国国民党内では周仏海の側近。後、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。日本敗北後の同年9月に逮捕され、死刑。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%80%9D%E5%B9%B3
(注33)1898~1982年。長野県の自作農の末子。陸士、陸大。「陸大卒業以降、フィリピンに出征した約1年間を除き、日<支>戦争期間中、和平工作に従事した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E4%BA%95%E6%AD%A6%E5%A4%AB
(注34)1896~1960年。犬養毅の三男。東大哲学科中退。作家を経て衆院議員。「父である毅が清朝期の<支那>革命活動を支援し、孫文らと交流があったため健も幼い頃から<支那>の政治家らと深いかかわりを持っていた。五・一五事件で父が暗殺された後は、その遺志を継ぐべく、影佐禎昭や今井武夫らとともに、泥沼化する日<支>戦争期間中、和平工作に全力を注いだ。特に汪兆銘(汪精衛)を擁して、日本占領下の南京に汪兆銘の国民政府を設立させる活動に傾注した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E5%81%A5
これを日本側は近衛首相、中国側は汪が承認したのち、汪が重慶を脱出して声明を発表し、和平運動に着手するという段取りが定められた。
日本側では参謀本部作戦部長らの強硬意見によって、合意事項から「日本軍の撤兵時期」(協議記録によれば治安回復から2年以内に撤兵完了)の部分が削除され、汪が12月20日に密かに重慶から脱出、ハノイに到着し・・・12月29日、対日和平交渉に踏み切るべきだと主張し、国民党と蒋総統に宛てて和平通電を発表した。
⇒時の参謀次長・・当時は事実上の参謀総長・・の中島鉄蔵は、前任多田駿同様、日支戦争不拡大路線であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E9%89%84%E8%94%B5
ので、彼を差し置いて、部下の作戦部長が強硬意見を吐いたとは考えにくいのですが・・。(太田)
国民党は汪の党籍を剥奪、一切の職務を罷免した。・・・
その後、影佐を主任とする梅機関の手で汪政権樹立工作が勧められ、いわゆる「内約交渉」の過程で日本政府から過酷な要求が追加されたため、1940年1月、高らが和平工作から脱落。
⇒このように、帝国陸軍が、何度も和平ムードを盛り上げる一方、その都度、「強硬意見」が部内から累次出現してそれを潰す、ということが繰り返されたところ、杉山らにとって、前者が「和平」好きの昭和天皇や政府部内の勢力向けのポーズに過ぎず、後者がホンネであった、と、我々は受け止めなければならないのです。
なお、蒋介石に関しては、どんな和平にも最終的には応じないだろう、と杉山らは見切っていた、と私は考えているところです。
汪兆銘、周仏海、高宗武、梅思平らについては、日本の傀儡達というよりは、帝国陸軍と毛沢東の共同謀略の犠牲者達、といったところでしょうか。(太田)
汪政権は同年3月30日「、南京に成立した・・・。・・・」(145、152~153)
(続く)