太田述正コラム#10293(2019.1.4)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その24)>(2019.3.26公開)
「1939年8月23日、ソ連は突如としてドイツと「ソ独相互不可侵条約」を締結した。
ソ連は、ファシズムの侵略を容認する根拠として、反ファシズム戦争を帝国主義間の大戦と解釈したのである。
毛沢東は・・・直ちに喝采を送ってこれに迎合した。・・・
<しかし、>極東では、日本の真の敵は依然ソ連であり、両国は中国東北の利益争奪のため数十年にわたって対峙していた。
ソ連は日本軍による圧力を軽減するために中国の抗戦を支持し、指令を出した。
⇒典拠が付されていません!(太田)
その狙いは、中国人の血と消耗をもって日本の侵攻を引き延ばし、日本人のもたらす脅威を防ぎとめることにあった。
中共は政権奪取というみずからの長期的利益のために、ときにソ連の意向に従わないこともあったが、根本的な問題ではソ連の命令を拒むことができなかった。
⇒そうではなく、「中共は・・・ときにソ連の意向に従うこともあったが、根本的な問題ではソ連の命令を拒んだ。」が正しいことは、皆さんには、既に、お分かりでしょう。(太田)
<そこへ、>1941年4月13日、ソ連はモスクワで日本と「ソ日中立協定」[日ソ不可侵条約]を締結し、中国の抗戦を公然と売り渡した。
中国の領土をめぐって半世紀にわたり争ってきた宿敵は、中国の北方の領土(満州国と蒙古人民共和国)をあらたに山分けするために慌ただしく妥協した<のだ>。・・・
中共はまたもや喝采を送った。・・・
重慶で刊行されてい<た>中共中央の機関紙『新華日報』[隔三日刊]は、4月24日、条約を称賛する社説を発表し<たのだ。>・・・
<ところで、この間にこういうことがあった。>
当時中共の幹部の一人であった王命<(前出)>は、数十年後に著した回想録の中で、毛沢東らの行為について以下のような証言を行っている。
「1940年10月・・・のある夜、延安の『新中華報』が翌日付の原稿を審査・閲覧してほしいと私の元に送ってきた(当時、私は中共中央党報委員会主席で『新中華報』の編集部を直接指導する立場にあった)。
社説のテーマは・・・毛沢東・・・が<同紙に>送ってきた・・・『独伊日ソの同盟を論じる』だった。・・・
<毛>は<同>紙編集部員と中央宣伝部の同志が参加する座談会を開き・・・事前に政治局で討議<することなく、この論文に沿った主張を行い、>社説としたい<とぶったというのだ。>
<驚いて、>(私<が>毛沢東に会って、このことを問いただすと<、>)毛は・・・半ば強引、半ば懇願といった体で、この論文を『新中華報』に発表させようとした・・・」・・・
⇒その結果どうなったかを著者は書いていませんが、『新中華報』に載ったのであれば、それを引用するはずなのにしていないところを見ると、王明の反対で掲載されなかったか、同紙バックナンバーが全部ないしその日付(前後?)のものが公開されていないか、どちらかですが、私は前者ではないかと見ています。
王明の指摘は恐らく事実であったと思われますが、これが、同年8月までに時の日本の外相の松岡洋右が唱えるに至っていた日独伊ソ四カ国同盟構想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E6%B4%8B%E5%8F%B3
と同じものであることにはいささか驚きました。
これは、この構想を毛、松岡両名に吹き込んだのが、杉山らである可能性を示唆しています。
その目的は、ドイツ嫌いの松岡をして、四カ国同盟に至る、第一段階であると思い込ませて日独伊三国同盟(署名:1940年9月27日(ベルリン))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
を、そして第二段階であると思い込ませて日ソ不可侵条約(署名:1941年4月13日(モスクワ)、効力発生:1941年4月25日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
を、締結させる(上掲)ところにあった、と考えられるのです。
では、杉山らが、毛を通じて中共にこの構想についてアドバルーンを上げさせようとした理由は一体何だったのでしょうか?
一般には、中共はソ連の傀儡と思われていたのですから、中共によるアドバルーンは、ソ連自身によるアドバルーンである、と松岡が受け止め、彼が、一層、三国同盟締結等に励むことを期待したのではないでしょうか。
結果としてアドバルーンは上がらなかったけれど、三国同盟、更には、日ソ不可侵条約、は締結されたわけですが・・。(太田)
<話を元に戻すが、>ソ日中立条約の調印<により、>・・・日本は、英米や国民政府に対して、よりいっそう気ままに振る舞うことになった。
日本軍は、1941年5月、山西省中條山(ちゅうじょうざん)の国軍に大規模な軍事攻勢をかけた。・・・
中條山付近にいた八路軍はなにをしていたのか。
彼らは対岸の火事を見るように高みの見物をしていたばかりか、機に乗じて、戦いに敗れた国軍の武装解除をしたのである。」(154~156、158~160、162~163)
(続く)