太田述正コラム#10295(2019.1.5)
<謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』を読む(その25)>(2019.3.27公開)

 「中條山の戦役が終結してから一ヵ月後の<1941年>6月22日、ドイツがソ連に総攻撃をかけた。
 ソ連の利益を最重要視する中国共産党は、直ちに政治的立場上、根本的な、しかし、いささか滑稽な転換を行うとともに、共産主義理論からこれに「解釈」を加えた。
 いずれにせよ、緊張していた国共関係は日本の最重要同盟国ドイツがソ連に進攻したことによって緩和されることになった。

⇒著者のアタマの構造はどうなっているのでしょうね。
 著者は、中共=日本、かつ、中共=ソ連、と主張しているわけですが、この二つが、いつの時点であれ、基本的に両立するワケがないことくらいは、小学生にも分かることだからです。(太田)

 中共はソ連の意を受けて、対日全面戦争の準備を始め・・・日本軍と協調した行動に基本的に終止符を打った。・・・
 <かつまた、>中共は・・・日本のソ連攻撃に警戒心を抱き、勢力拡張を一時停止し、軍隊も基本的に国軍への侵攻を停止した。

⇒前述したように、この頃には、もはや、日本軍占領地域の蒋介石政権勢力は、中共の協力の下、駆逐されていた一方で、正面切って、中共軍が国軍(蒋介石政権軍)に攻撃を仕掛けるわけにもいかなかったことから、表見的には、「日本軍と協調した行動に基本的に終止符を打った」ように、かつ、「国軍への侵攻を停止した」ように、見えた、というだけのことでしょう。(太田)

 その後、毛沢東は中共党内における彼個人の地位を固めるため、整風運動<(注36)(コラム#6346)>を展開することになった。」(165~167)

 (注36)「第1期 1938年の第6回中央党大会で、毛沢東は党と軍両方の最高指導者に指名され、毛沢東の立場はやや合法化された。毛沢東は権力をさらに確実にするため、王明がモスクワに出張している隙を利用して、劉少奇とその部下である彭真、薄一波の協力を得て、「28人のボルシェビキ」から完全に権力を取り上げた。1941年の政治局の会議において、王明の失脚が確定した。
      第2期 ・・・1942年から・・・毛沢東は・・・ライバルを2つに分類した。1つめは「独断主義」であり、王明と「28人のボルシェビキ」、そして劉伯承、左権、朱瑞などの海外留学組である。もう1つは「経験主義」の一群であり、周恩来、任弼時、彭徳懐、陳毅、李維漢、鄧発ら、かつての王明補佐組である。毛沢東はそれぞれのリーダーに互いを批判させ、さらに会議で自己批判するよう強要した。彼らは全員、仲間の告発と、自らの誤りに関する謝罪文を書かされた。・・・
 毛沢東は元々、西洋の思想である正統派マルクス主義、レーニン主義を軽蔑していた。毛沢東はそれらを自らの信ずる実用主義で置き換えた。さらに毛沢東は、これら海外理論を奉ずる者に、独断論者というレッテルを貼った。これは、中国の革命運動を大きく逆戻りさせることになった。正統派マルクス主義とレーニン主義の否定は、理論的な理由からというよりも、単に毛沢東の好みと考えたほうがわかりやすい。

⇒毛は、人間主義的であるマルクス主義を肯定的に受け止め、非人間主義的であるマルクス・レーニン主義を否定的に受け止めていた。
 だから、彼が、マルクス・レーニン主義者達を粛清・矯正したのは、「好み」などではなく、「理論的な理由から」だ。
 但し、整風運動が、同時に、毛「個人の地位を固める」のにつながったこと、そして、そのこととも相俟って、来るべき蒋介石政権との中共の全面対決態勢を遺漏なきものにするのにつながったこと、は確かだろう。(太田)

 毛沢東<が>・・・、整風運動を担当させた<のは、>康生、李富春、彭真、高崗らであり、後に劉少奇が加わった。・・・
      第3期 張聞天、博古ら古参幹部<を粛清するとともに、>・・・中国国民党支配地域から来た新顔達の思想を検閲<した上で、彼らの粛清・矯正を行った。>・・・
 <整風運動の終>期<について>は1944年あるいは1945年4月の2説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B4%E9%A2%A8%E9%81%8B%E5%8B%95

(続く)