太田述正コラム#777(2005.7.4)
<インドとは何か(その1)>
(コラム#776を若干拡充して私のHPに再掲載してあります。)
1 始めに
インドはヒンズー教原理主義化しつつあったところ、昨年の総選挙で国民会議派を中心とする政権が復活することによって、手放しで楽観はできないものの、本来の世俗主義の路線に戻ったように見える、ということを以前(コラム#354、355で)申し上げました。
中共と並ぶ巨大な人口を擁する発展途上国たるインドにおいて、自由・民主主義がこのようにおおむね機能し続けて来たのは、一体どうしてなのでしょうか。
それなのに、インドが経済発展の面において現在中共の後塵を拝しているのは、なぜなのでしょうか。
どこまで、このような根本的な疑問を解明できるか分かりませんが、とにかく解明に向けて第一歩を踏み出すことにしました。
2 議論と寛容の伝統
(1)センの指摘
アマルティア・セン(注1)が、新著The Argumentative Indian: Writings on Indian History, Culture and Identity, Allen Lane を上梓し、インドの自由・民主主義は、インドに議論と寛容の伝統があったからこそ機能してきた、と指摘しています。
(注1)センについては、コラム#210、315参照。その後センは、英ケンブリッジ大学教授から米ハーバード大学教授に転じている。
センの言っていることを、適宜補足しながらご紹介することにしましょう。
(以下、特に断っていない限りhttp://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1519820,00.html(書評)、http://www.scimd.org/phpBB2/viewtopic.php?t=817&(センの講演録)、及びhttp://www.asianreviewofbooks.com/arb/article.php?article=557(書評)(いずれも7月3日アクセス)による。)
(2)議論と寛容の伝統
インドには、議論・公の場での討論・知的多元主義・寛大さ、つまり議論と寛容の伝統がある。
1,000年にわたってインドの中心的な宗教であった仏教も、その後インドの中心的な宗教となったヒンズー教も、包容的な宗教であり、排他的ではなかった。
このようなインドの伝統を体現している代表的な国際的著名人として、20世紀前半からは1913年のノーベル文学賞受賞者タゴール(Rabindranath Tagore。1861?1941年)、20世紀後半からはカンヌ・ヴェニス・ベルリンの各映画祭で数々の賞を受賞した映画監督のサタジット・レイ(Satyajit Ray。1921?92年)を挙げたい。二人とも、欧米の人々が抱くインドの神秘的な聖者、というイメージからはほど遠い、実際的・世俗的・合理的思考をする人物だ。
インドは昔から人口大国だっただけでなく、インドに住んでいた人々の言語・文化・宗教・職業・信念・慣習の多様性においても世界有数の大国だった。
インドの人々はとにかく議論好きだ。
11世紀の初めにインドを訪問し、史上初めてのインドの歴史書を著した、イラン系のイスラム教徒のアルベルーニ(Abu Rihan Muhammad bin Ahmad。Alberuniは通称。973?1048年)(http://www.infinityfoundation.com/mandala/h_es/h_es_kumar-v_alber.htm及びhttp://www.varnam.org/blog/archives/2005/06/alberuni_the_fa_1.html(7月3日アクセス)は、インドの数学や天文学の水準には敬意を表しつつも、何にも知らないことについてまで滔々とまくし立てるインド人の議論好きにはあきれている。
サンスクリットで書かれた物語であるラーマヤナ(Ramayana)やマハーバラータ(Mahabharata)の長さはすさまじい。マハーバラータだけでホメロス(Homer)のイリアス(Iliad)とオデユッセイア(Odyssey)を合わせた分量の7倍はある。このラーマヤナやマハーバラータの中は議論や討論で充ち満ちている。バガバットギータ(Bhagavad Gita)はマハーバラータの中の長い一節だが、全編が一つの議論から成っている。
仏教でも様々な見解の持ち主が一堂に会して法論を闘わすことがしばしば行われた。
紀元前3世紀のマウリヤ朝(Mauryan dynasty)の三代目のアショカ(Ashoka)王は、宗教・宗派間の寛容を説いた(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E9%9B%86。7月3日アクセス)。彼は仏教の三番目の仏典結集(けつじゅう。大法論会)を主催し、その時、討論の心得を提示し、仏教各宗派が互いに敬意を持ち、議論にあたっては自己抑制を忘れないこと等を求めた。
1590年代にはムガール帝国のアクバル(Akbar)大帝が、宗教に関する寛容と信仰の自由を説き、ヒンズー教徒・イスラム教徒・キリスト教徒・パルシー教徒(注2)・ジャイナ教(注3)徒・ユダヤ教徒・無神論者、の間の討論会を盛んに開催した。この頃の欧州では、火炙りの刑を伴う異端審問がまだ行われていたことを思い起こして欲しい。
(注2)7、8世紀にイスラム教徒の迫害を受けてペルシアからインドに逃れたゾロアスター教徒の子孫(MSN英和辞書)。
(注3)仏教と同じ頃にインドで生まれた宗教。アヒンサー(不殺生)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られる。仏教と違ってインド以外の地にはほとんど広まらなかった。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99。7月3日アクセス)
しかも、議論に大昔から女性が加わっていたこと、また、かねてからカースト制度を根底から批判する議論がなされてきたこと等、インドには人間を平等視する確固たる伝統が存在する(注4)。
(注4)紀元前4世紀後半にアレクサンドロス大王がインドに攻め込んだ時、ジャイナ教の高僧達に「なぜ新しい征服者たる自分に敬意を示さないのか」と問うたところ、「アレクサンドロス王よ、いかなる人間も自分が立っている地面しか所有してはいない。あなたも我々と同じ一介の人間に過ぎない。しかし、あなたはいつも無意味に忙しく立ち回り、自分の故郷からかくも遠くまで旅をしてきた。何と自分にも他人にも迷惑なことよ。・・あなたは遠からず死を迎える。そしてあなたは、自分を埋葬するために必要な土地だけを所有することになるのだ。」と答えた。アレクサンドロスは、デイオゲネス(Diogenes of Sinope。樽に住んでいたと言い伝えられるギリシャの犬儒学派の哲学者。アレクサンドロスが「私が何かあなたにしてあげられることは」と聞いたところ、「私にあたる日の光を遮る場所に立たないでくれ」と答えたとされる(http://www.iep.utm.edu/d/diogsino.htm。7月3日アクセス)。)に示したのと同じ敬意を彼らに払いつつ、アーリア人からかくも平等主義的な話を聞かされるとは、と語った。もとより、アレクサンドロスはその後も自分の言動をいささかも変えはしなかった。
(続く)