太田述正コラム#7792005.7.6

<中共の経済高度成長?(その8)>

(本篇は、コラム#765の続きです。)

 都市部における経済改革は、意外な場所から始まりました。

 浙江(Zhejiang))省の省都、抗州(Hangzhou)の南360kmのところにある温州(Wenzhou)です。

 近郊を合わせると600万人の人口がありましたが、四囲を山と河と海に囲まれて孤立していた温州には、いくら中共でもめずらしいことに、1980年代末に至るまで、空港もなければ鉄道もありませんでした。抗州に行くのは自動車で12時間もかかりました。ですから、こんなところには、北京からはもとより、抗州からも中共の監視要員は足を運ぶことはまずありませんでした。

 温州周辺の農村人口は伝統的に過剰であり、農業生産性も低かったため、温州ではかつて家内工業が盛んであったという歴史がありました。

 既に触れたように1978年に「少人数での農業経営」が認められたところ、温州周辺の農村でもやがて「家族での農業経営」が始まり、これに伴って温州でも日用雑貨の家内工業が復活するのですが、温州の温州たるゆえんは、家内工業の数が実に何万というオーダーにのぼったことでした。

ところが、中共当局は、家内工業には、大家族のメンバー7名以内しか雇用できない、という規制をかけます。

 そこで、1984年から、温州で始まったのが「株式協同組合」(stockholding co-operative。漢語表記不明)でした。実態は株式会社であったこの「組合」の社会主義的残滓は、年間利益の四分の一を全従業員に分配する、という点だけでした。

 10年も経つと、温州及びその近郊における「組合」の数は20,000を数え、この地域のうなぎのぼりに増えた総生産の20%を「組合」が占めるようになります。この「組合」の存在を北京に隠し続けてきた温州市政府が、この「組合」の存在をオープンにし、「組合」に係る条例を制定したのは1987年になってからでした。

 この間、「株式協同組合」・・いわゆる郷鎮企業・・は(「家族での農業経営」同様)中共全土に広まって行きました。

 ちなみに、中共当局が、「家族での農業経営」を公式に認めたのは1983年であり、「株式協同組合」を公式に認めたのは1988年です。

 (以上、PP34?3739による。)

 以上、中共当局がやったことと言えば若干の規制緩和だけであり、中共の経済改革は、中共当局の風向きの変化を感知し、その時点ではまだ禁止されていた試みを大胆に行った農民や都市住民のイニシアティブによって始まったという話をしてきました(注22)。

 (注22)中共当局のイニシアティブによる郷鎮企業もなかったわけではない。江蘇省の蘇州・無錫・常州といった蘇南地域から始められたところの、現地政府が土地・資本・労働力・経営者などで支援を与える「公有企業」(温州モデルに対して蘇南モデルと呼ばれる)がそれだ。

しかし「公有企業」は、市場経済化の進展や企業規模の拡大に伴い、経営者と労働者の利益が所有者である現地政府と乖離する、という国有企業と同じような問題に直面するようになり、民営化を余儀なくされていく。つまり、集団所有の蘇南モデルが私有の温州モデルに敗れたわけだ。

その温州の郷鎮企業は、1990年代半ば以降、中共当局の公認の下、完全な株式会社へと姿を変える。2002年までに、郷鎮企業の従業員の数は国有企業を50%ほど上回る1.27億人に達した。

(以上、http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/020218kaikaku.htm(7月4日アクセス)による。)

 もっとも、中共当局のイニシアティブによって始められた経済改革もないわけではありません。中共沿岸部における経済特区(Special Economic Zone=SEZ)の設置がそうです。

 中共当局は、1980年に広東省に新セン等三箇所、福建省に一箇所、計四箇所の経済特区を設け、外資に開放しました。1980年から中共首相となった趙紫陽は前広東省省長であり、広東省に対して税を大幅に減免する等の優遇措置を講じたこともあって、経済特区は軽工業の輸出基地としてめざましい発展を遂げることになります。

そして、外資に開放された地域は、経済特区という「点」から沿海地域という「線」に、そしてほぼ全国を網羅する「面」へと広がって行くのですhttp://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/010730kaikaku.htm。7月4日アクセス)

 ここで忘れてはならないのは、初期の外資はもっぱら、地の利と血縁を生かした香港の企業であったことです。香港が中共に返還される以前の1991年の時点で、既に広東省で、25,000の香港企業の工場が、300万人を雇用する状況になっていました。

 (以上、特に断っていない限りPP44?45による。)

(続く)