太田述正コラム#10313(2019.1.14)
<學士會報より(その2)>(2019.4.5公開)
3 兵藤裕己「後醍醐天皇と近代の天皇制」(學士會報2019-I)
「・・・中世という時代の(オカルト的な)特殊性のなかに後醍醐天皇を封じ込める学説・・・具体的には、網野史学によって流布した「異形の王権」イメージの呪縛から脱する<必要が>ある。・・・
⇒その前に、「中世」(上出)や「近世」「近代」(下出)などという、(アングロサクソン史も、基本的に無縁であるところの、)欧州史からの借り物の時代区分の呪縛から脱する必要もあるのでは、と言いたくなりますが・・。(太田)
後醍醐天皇の「新政」に関連して注意されるのは、<彼に重用された文観の>密教よりもむしろ儒教、なかでも中国宋代に興った新しい儒学、宋学である。
⇒後堀川天皇(1212~34年。天皇:1221~32年)以来、皇室では親王名を「〇仁」とする伝統がほぼ確立した(コラム#10237)わけですが、これは、宋学、とりわけ、程明道の「万物一体の仁」(コラム##10333、10335、10337)の考え方に触発されたものであった、と私は見ている次第です。
但し、後醍醐天皇自身は、異母兄の後二条天皇同様、本人は「〇仁」であったところの、父たる亀山天皇の、持明院統への対抗意識からか、「〇仁」とは名付けられませんでしたが・・。(太田)
たとえば、<大覚寺統の>後醍醐が即位した翌年(1319年)、<持明院統の>花園上皇は、日記のなかで、近日の内裏で儒教の学問がさかんであるとして、・・・宋学を盛んに行う天皇の側近として、冬方朝臣と藤原俊基<を>あげ<ている>。
・・・藤原俊基(日野俊基)は、当時まだ六位相当・・・だから、「朝臣」(殿上人)とは呼ばれない。・・・
<しかし、>その二年後、俊基は天皇側近の五位の蔵人、すなわち殿上人に抜擢された。
この抜擢人事について、<同じ>花園上皇の日記に、「諸人、唇を反(かえ)す(悪口を言う)」とある。
だが、その一カ月後には、・・・儒教の学問で身を立てる者が多いことを、・・・花園上皇が「政道の中興」かとし<(褒め)〉ている<ところだ。>・・・
<また、>後醍醐<天皇の、同じく>側近の日野資朝の、「当時の政道、正理に叶ふ(後醍醐天皇の治世は、天の正しい理法に叶っている」という発言は、花園天皇の日記に<引用>されて<いて>有名である。
<このような>家柄や門閥の序列を解体してしまう後醍醐の人事が本格化するのは、鎌倉幕府がほろんだあとの建武政権においてである。
その背景にあったのは、宋学とともに受容された中国宋代の中央集権(=皇帝専制)的な官僚国家のイメージである。・・・
<このような>後醍醐天皇の「新政」は、しかし南朝の衰退が決定的となり、足利政権の支配下で前例・故実を墨守するしかなくなった14世紀後半の公家社会では、ひたすら・・・三条公忠が日記に書き付けた<ような、>「物狂の沙汰」<なる、>・・・負の過去として記憶されることになる。
⇒持明院統・北朝の諸天皇が後醍醐天皇による人事を「物狂の沙汰」とは見ていなかったらしいことからしても、建武新政の瓦解は、後醍醐天皇による人事思想によるというよりは、弥生モードの真っただ中だったというのに、彼が、ゲヴァルトの担い手たる武士を征夷大将軍等の重職に付けなかったこと、かつまた、武士の登用の個別人事において軽率であったこと、による、と私は考えています。(太田)
<もっとも、>建武政権の崩壊から30余年<も経った>応安3年(1370)、北朝で・・・後光厳天皇の後見役の勧修寺経顕(かじゅうじつねあき)が内大臣に任じられ<たりしている。>
勧修寺家は、大納言を上限とする名家(めいけ)の家柄である<にもかかわらず・・>。・・・
<いずれにせよ、>政治思想史のうえでは、後醍醐の新政の企ては、出自や家柄に根ざした身分制社会の否定として、この列島の社会における「王政」への幻想を醸成することになる。
既存の身分秩序や、社会的な序列を解体して、天皇がすべての民にひとしく君臨する一君万民(=四民平等)的な統治形態は、後醍醐の「王政」の企てに端を発したのだ。
その「王政」の理想は、身分制社会からの解放・革命の隠喩として、やがて幕末から近代の「王道楽土」の幻想(ファンタズム)を生みだすだろう。
後醍醐天皇の「王政」<は>、かれが生きた時代よりも、むしろこの国の近世(幕末)・近代の歴史に甚大な影響を及ぼした<と言えそうだ。>・・・」
⇒兵藤の主張が正しいとすればですが、後醍醐天皇の「王政」は、満州国建国の理念(コラム#10309)、更には、中華人民共和国建国の理念にもまた、「甚大な影響を及ぼした」と言えそうです。
(但し、幕末の日本や満州国に「甚大な影響を及ぼした」際、建武新政時代の「天皇親政」については、天皇は象徴的存在へと換骨奪胎されたことを銘記すべきでしょう。)
なお、兵藤は、学習院大院人文科学研究科教授です。(太田)
(完)