太田述正コラム#10325(2019.1.20)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その4)>(2019.4.11公開)
3 主菜–政治学者丸山批判
「・・・「政治学という学問は日本では一番振わない」とか、「一体政治学者といえる人が日本に何人いるのか」とかいう言葉を終戦後どこでも聞かされる。・・・
八・一五にはじまり、また現にわれわれの目前で引き続き進行している、有史以来の変革–いわゆる民主革命と総称されているもの–はもとより狭義の政治的変革に尽きるものでなく、社会、経済、文化等われわれの全生活領域にわたる根本的な変革を包含しているものであるが、そうした巨大な変革がなにより政治的変革を起点とし、それを押し進める主体がなにより「政治的」な地からであることは何人にも明白である。・・・
<このような、>われわれの現実生活における政治の圧倒的な支配力と、それを対象とする学問の恐るべき発育不良と–そのコントラスが今日ほど鋭く世人の眼に露呈された時代はない。」(12~13)
⇒丸山には、人間社会を研究する学問として社会学・・歴史学は社会史学であってその一部であると私は見ています・・が存在するのは分かるとして、その中から、法学や政治学や経済学が「切り出されている」のはどうしてか、という根源的な疑問を抱いたことがなさそうですね。
私は、法学と経済学が「切り出されている」のは、両者とも、国の属性を扱っているからである、と考えています。
法学に関しては、強制力を背景として当該国における国内紛争の予防と解決を図るために、古今東西の全ての国に存在しているところの、法、の研究を行うものです。(典拠省略)(注1)
(注1)その唯一の例外が、欧州文明における法学であり、本来的には、国でもなく、また、強制力を背景にしているわけでもないところの、カトリック教会なる、「民間」団体のルールである、カノン法(狭義の教会法)、も、伝統的に研究の対象になっている。
なお、「バチカン市国が主権のある国家として国際連合に加入しているのも<こ>のような歴史に由来する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E4%BC%9A%E6%B3%95
経済学に関しては、その祖とも言えるところの、(イギリス人以上にイギリス人らしい、)スコットランド人のアダム・スミスが著書の『国富論』(1776年)に記している定義が、その何たるかを物語っています。↓
「経済学は、・・・ひとつは、人々に豊富な利益ないしは製品を供給し、更には利益や必需品が人々に益を齎す(もたらす)ようにする方法、<もう一つ>は、そうした収益を国ないしは社会にサービスとして提供し、結果として人々と統治者を豊かにする手立て<、>である。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6
つまり、アングロサクソン文明において、国・・イギリスは議会主権・・は「人々と統治者を豊かにする」ための対外的軍事行動の主体なのであって、その大前提は(軍隊構成員ないしその候補である国民が居住する)国内の治安の確保であるところ、法は国内紛争の予防と解決、経済は国民生活の安定のための、どちらも国家の手段であり、また、経済は、対外的軍事行動のための軍資金を確保するための手段でもある、というわけであり、スミスは、法を研究する法学の定義は既に存在していたことから、経済の研究をする経済学の定義を新たに規定した、というわけです。
以上から、対外的軍事行動の主体たる「近代」国家(アングロサクソン的国家)においては、法学と経済学は存在根拠がある、と言えるでしょう。
(このうち、法学に関しては、国家一般において、その存在根拠がある、と言えそうです。)
では、政治学はどうでしょうか?
たまたま、プラトンが『国家』(ポリティア=The Republic)を書き、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6_(%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E7%AF%87)
また、プラトンの弟子のアリストテレスが『政治学』(ポリティカ=Politics)を書いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6_(%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B9)
ことから、私見では、これが、独立した学問領域であるとの誤解が生まれ、欧州文明下で19世紀までに、国政に対する法学的・制度的アプローチが盛んになり、ドイツで法学的アプローチの国法学(Staatsrechtslehre)が生まれ、また、アングロサクソン文明と欧州文明のキメラである米国文明下でそれよりやや遅れて制度的アプローチの政治学(political science)が生まれ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6
てしまった、という経緯なのです。
しかし、これは誤ったアプローチなのであり、名誉・権力の問題は、社会に遍在しているのであって、国家レベルにおいてだけではなく、あらゆる社会組織おいて見られる以上、政治学ならぬ、(国(政府)も組織の一つとして包含したところの、社会全体を研究する)社会学の諸メインテーマの一つとして研究されるべき事柄なのです。
それなのに、丸山には、1885年に「政治学科・理財学科を文学部から法学部に移し法学部を法政学部と改称」され、翌年、「東京大学法政学部が帝国大学法科大学に改組」され、今度は1919年に「法科大学が法学部に改組されるとともに、経済学科・商業学科が経済学部として分離独立」された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E6%B3%95%E5%AD%A6%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91%E3%83%BB%E6%B3%95%E5%AD%A6%E9%83%A8
ものの、政治学科が法学部に残った経緯、及び、「戦前の東京帝国大学法科大学において・・・憲法講座と国法学講座が<政治学科と>並立して設けられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B3%95%E5%AD%A6
経緯、一方、日本の諸私立大学には政治経済学部がある、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AD%A6 前掲
といったことを振り返り、政治学の位置づけを考える、といった姿勢すら見られません。(太田)
(続く)