太田述正コラム#787(2005.7.11)
<欧州における歴史的瞬間(その3)>
(4)オリンピック開催地がロンドンに
そこへもってきて、2012年のオリンピック開催地として本命視されていたパリが、大どんでん返しでロンドンに開催地をさらわれてしまう、というだめ押しです。
フランスでの反応は、この上もなく自虐的なものでした。
フランス・ソワール(France Soir)紙は、「フランスはノックアウトされた。・・フランスはもはやそのモデルを魅力的に見せる能力を欠いている」と嘆き、IOCによる発表の15分前に「パリ・オリンピック決まる」とウェッブ・サイトに乗せる大チョンボをやらかした(http://www.nytimes.com/2005/07/06/international/europe/06cnd-france.html?pagewanted=print。7月7日アクセス)右翼系のフィガロ(Le Figaro)紙は、「フランスのこのところの国際場裏におけるイメージがマイナスに働いた」と分析し、中道左派系のル・モンド(Le Monde)紙は、「トニー・ブレアは、またまたジャック・シラクに勝利した」と肩を落とし、左翼系のリベラシオン(Liberation)紙は、フランスではオリンピック開催によって「国家的破産状況を隠蔽しようとするむきがあった」が、「自分自身が演ずべき役割に疑問を抱いている者が、晴れがましい舞台の中央にしゃしゃり出ようとしたことがそもそも間違いだった」と猛省を促したのです。
(以上、特に断っていない限りhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4659417.stm(7月8日アクセス)による。)
当然ながら、英国は歓喜で湧きたちました。
ニューヨークタイムス紙は、英国人に成り代わり、これでようやく英国人は先の大戦後の帝国の喪失による心の傷から回復することができよう、と記しました。
シラクの向こうを張ってシンガポールに飛び、IOC会場でロンドンをアッピールしたブレアは有頂天になり、飛び上がった上に側の人に抱きつきましたし、ブレア政権の元閣僚は、パリが敗れたことについて、「いいザマだ(it couldn’t happen to a nicer people, could it?)・・自己陶酔にふける(gloat)のがみっともないことは知っているが、今は手放しに自己陶酔にふけっている」とイブニング・スター(The Evening Standard)紙に寄稿しました。また、シンガポールからBBCの記者は、BBCの客観報道の伝統をかなぐり捨て、「ロンドンが選ばれた!(London got it right!)・・なんて素晴らしいことか!」と報じました(注6)。
(以上、http://www.nytimes.com/2005/07/06/international/europe/06cnd-london.html?pagewanted=print(7月7日アクセス)による。)
(注6)IOCの事前調査で、競技場等の整備状況と交通事情においてパリに比べて遅れている、とされたロンドンが(ニューヨーク・モスクワ・マドリードのみならず)パリに逆転勝利した要因は、ブレア首相やロンドン招致委員会会長で元金メダリストのコー(Coe)卿の名プレゼンテーションのほか、二つあったとされる。
その第一は、子供達に夢と機会を与える、というコンセプトを前面に出したことだ。(IOCの会場のシンガポールに送り込まれたロンドン代表団100名の三分の一は子供達だった。)
第二は、ロンドンで最も貧しく開発の遅れた地域の一つである東部のイーストエンド・・多様な人種の混住地域でもある・・の再開発につながることを訴えたことだ。公園がつくられ、その中に競技場・プール・選手村が設けられ、オリンピック後は、選手村が学校・住宅コンプレックスに生まれ変わる、という構想だ。
(以上、http://news.ft.com/cms/s/2aa2c7f0-ee06-11d9-98e5-00000e2511c8.html
及びhttp://www.csmonitor.com/2005/0707/p01s01-woeu.html(どちらも7月7日アクセス)による。)
この数々の対仏、より的確には対仏独勝利の栄光に包まれながら、凱旋者のようにブレアは、グレンイーグルス・サミットに主催者として臨んだのです。
(続く)