太田述正コラム#10341(2019.1.28)
<2019.1.27関西オフ会次第(続)/丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その8)>(2019.4.17公開)

–2019.1.27関西オフ会次第(続)–

<鯨馬>

 共産党独裁体制の下では中共の経済成長もそろそろ限界だとの主張についてはどう思うか?

<太田>

 何も変わらなくったって、中共の経済成長はまだまだ続く。
 中共国内に相対的に豊かな都市部と相対的に貧しい農村部を抱え、日本や韓国のような先進諸国をすぐそばに持ち、しかも、日本については当局が積極的に見て来ることを勧めている以上は、都市部のようになりたい、更に、日本のようになりたい、と思う人々が何億人もいるのだから・・。
 
<鯨馬>

 しかし、技術を盗んだり真似したりすことがもはやできなくなってきているのではないか。

<太田>

 質はともかく、量的には、中共の自然科学の学術論文の産出数は既に世界一になっている。
 最先端の学術論文は生み出し得ていないとしても、それらは、果たして利用可能なのか、利用可能だとしてもいつそうなるのか、といったものが多いわけで、これまた大した問題ではない。
 なお、中共当局は必ずしも経済成長至上主義者達ではなかろう。
 日本文明総体継受に努めているということは、人々を人間主義者にするということであるわけだが、人間主義者になれば、足るを知る人になるのであり、日本がそうなったように、中共が、高度成長の後、低成長社会になることは織り込み済みであるはずだからだ。
 この際、申し上げておくが、比較的最近まで、私は、大学時代の友人達が、現役時代も、リタイア後も、それぞれの能力を100%使っていないことを残念に思っていたところ、そういう発想は間違っているのではないか、と考えを改めつつある。
 100%能力を使おうとする人が増えれば増えるほど、環境は破壊され、戦争が起きるのではないか、欧米はまさにそういう人々が、(とりわけ上層部において)多い社会だったのではないか、とね。
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–丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その8)–

 「このように見て来るならば、八・一五以前の日本に政治学というような学問が成長する地盤が果して存在したかどうかということは問わずして明らかであろう。
 維新革命が周知のごとき経過によって、絶対主義的勢力のヘゲモニーをきたし、明治10年代の自由民権運動が上からの強力な抑圧と内部的な脆弱性によって潰え去ったときに、すでに日本の政治的近代化の軌道は定まったといいうる。
 あの明治憲法が「不磨」として打ち出した国家体制はかくてもはや自由な論議の対象となりえなかった。

⇒丸山の東大法先輩教授達の間で戦わされたところの、穂積八束(注5)・上杉慎吉(注6)の天皇主権説と美濃部達吉の天皇機関説との間の激しい論争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%85%8E%E5%90%89
のどこが、「自由な論議」ではなかったのか、丸山の説明を聞きたかったところです。(太田)

 (注5)1860~1912年。伊予宇和島藩士の子。東大文(政治学科)卒、独留。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%82%E7%A9%8D%E5%85%AB%E6%9D%9F
 (注6)1878~1929年。大聖寺藩(現、石川県加賀市)藩医の子。四高、東大法卒、独留。「1910年代に入ると「天皇即国家」「神とすべきは唯一天皇」「天皇は絶対無限」「現人神」とする立場から同じく東京帝国大学の美濃部達吉が打ち出した天皇機関説を批判するようになる(天皇機関説論争)。・・・
 1916年に吉野作造の民本主義を批判、1920年には森戸辰男の発表した論文「クロポトキンの社会思想の研究」を「学術の研究に非ず、純然たる無政府主義の宣伝」と排撃して森戸事件を起こす一方、1923年から後に「資本論の会」や葬儀に参加するほど高畠素之と親交を深めて高畠一派と経綸学盟を設立するなど国家社会主義運動を進め<た。>・・・
 二人の息子は日本共産党員である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%85%8E%E5%90%89

 政治権力の究極的源泉を「問う」ことはタブー中のタブーとなってしまった。

⇒政治権力の究極的源泉が天皇であっても、天皇機関説のように、国家主権説(注7)に立脚して、天皇主権説が事実上否定され、しかも、それが一定期間、日本の政官界で通説化さえしたことに鑑みれば、「政治権力の究極的源泉を「問う」」意味は余りなさそうです。(太田)

 (注7)「主権・・・が法人たる国家に帰属するという学説。主権主体を具体的な人間以外のものとすることによって、主権論の本来的な問題を回避しようとするもの。・・・ドイツで・・・イェリネックによって大成された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E8%AA%AC-502393
 ゲオルク・イェリネック(Georg Jellinek。1851~1911年)は19世紀ドイツの公法学者。ユダヤ人の子だがキリスト教に改宗。絶対主義的君主主義に反対して人権の確立に努めた。主著は『Allgemeine Staatslehre』(邦題『一般国家学』)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%83%E3%82%AF

 国家権力の正統性の唯一の根拠は統治権の把持者としての天皇にあり、立法権も司法権も行政権も統帥権もすべては唯一絶対の「大権」から流出するものと理解された。
 したがって、この「大権」と同じ平面において認められるいかなる政治的権利もありえなかったのである。

⇒こんなものは、単なる言葉の遊びです。(太田)

 だから近代国家におけるようにそれ自身中性的な国家権力の掌握をめざして、もろもろの社会集団が公的に闘争するといった意味での「政治」はそこには本来存在の余地がなかったといえよう。」(17~18)

⇒大正デモクラシーの下での、政党内閣制の成立に伴う政争など政治とは言えない、ということのようですが、それじゃあ、丸山にとって、(近代国家における(?))政治って一体何ですか、と問い質したくなりますね。(太田)

(続く)