太田述正コラム#10349(2019.2.1)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その10)>(2019.4.21公開)

 「ヨーロッパの政治学の概論の一見抽象的な記述の背後には、いわば数百年にわたる欧州政治の歴史的展開が横たわっている。

⇒丸山にとってのヨーロッパは、私の言うところの、欧米、のことなのでしょうが、太田コラムの長年の読者諸公はよくご承知のように、欧米は、アングロサクソン、欧州、米国の三つの文明から成り立っているところ、政治学もまた、三者三様であって不思議ではなく、現に、私の見るところそうなっているのですが、丸山も、ご多分に漏れず、これらの違いに鈍感な典型的な日本人文系学者ですね。(太田)

 只一つの命題でもそうした現実の波動のなかで鍛えられつつ形成されなかったものはない。
 だからそうした範疇なり命題なりをときほぐして行けば、結局ヨーロッパの生きた政治的現実にまで具体化されるのである。

⇒丸山が、「違いに敏感」であれば、アングロサクソン(イギリス)の「先進的」な政治を欧州が理念型化し、それを米国が採用した、という、三者の違い、というか、一者と残りの二者の関係性、が見えてきて、イギリスとの関係においては、日本も、その独自性というか特殊性こそあれ、その政治を、欧州や米国のそれと同じ土俵上で、イギリスのそれと対比する、というアプローチも可能であることに気付くはずなのですが・・。(太田)

 ところが日本の政治となると、根本の国家構造と歴史がすでに同じでない上に、立憲制のようにある程度まで彼我共通している政治制度も、それを現実に動かしている精神がまるでちがうために、そうした抽象的概論は現実の政治の動きを理解し分析するには殆ど役にたたない。

⇒そんなことを言い出したら、全く同じことを欧州と米国についても言わなければならなくなる、ということに、当然のことながら、丸山は気付いていません。(太田)

 だから現にそうした概論や方法論的論議を得意とする政治学者がひとたび日々の現実政治の問題を論ずるとなると、そうした「政治学」的教養をすこしも持たぬ政治記者と殆どかわらない、常識的な見解を示すにとどまってしまう。
 これはその学者の能力の問題というよりむしろ、根本的には日本の政治の動きかたそのものの非合理性に帰着するのである。
 すなわち、・・・政治的統合が選挙とか一般投票とか公開の討議による決定とかいう合理的な、いいかえるならば、可測的な(berechenbar)過程を通じてでなく、もっとプリミティヴな原理、たとえば元老・重臣等の「側近者」の威圧とか、派閥間の勢力関係の異動とか、「黒幕」や「顔役」の間の取引(待合政治!)とかいった全く偶然的な人間関係を通じて行われることが多いために、通常の目的合理的な組織化過程を前提した政治学的認識はその場合殆ど用をなさないわけである。

⇒個人主義文明だけが目的(?)合理的で科学的分析の対象たりうる、と丸山は言っているに等しいわけであり、これは、別の角度から見れば、政治学とは、アングロサクソン文明の一面を研究する学問以上でも以下でもない、と言っているに等しいことにもなります。
 仮にそうだとすれば、アングロサクソン文明以外の政治的現象を研究する学問は存在し得ない、のか、文化人類学の対象である、のかのどちらかである、ということになりそうです。
 ところがです。
 丸山は、法学部の教授職を、定年近くまで・・東大紛争のショックで定年までではなく(私自身の知見による)・・、自主的に返上し、退職しようとはしませんでしたし、文学部や教養学部の教授職に転籍しようともしませんでした。
 これでは、(丸山が退官するまで、東大の予算は全額国費で賄われていた以上、)丸山は、即、税金泥棒だったということに・・。(太田)

 従って我国の現実政治を理解するには、百巻の政治学概論を読むよりも、政治的支配層の内部の人的連鎖関係に通ずることがより大事なことと考えられたし、又事実その通りであった。
 ありあまる政治学的教養を身につけた大学教授よりも一新聞記者の見透しがしばしば的中した所以である(むろん他の学問領域たとえば経済についてもある程度まで同様のことがいわれるであろうが、理論と実際との乖離は政治の場合ほど甚だしくはない)。・・・」(20~21)

⇒これまた、太田コラムの長年の読者諸公はよくご存じのように、日本は人間主義文明なのであり、その政治や経済を分析、研究する方法は(「人的連鎖関係に通ずること」以外に)ないわけではなく、単に、アングロサクソンの個人主義文明を分析、研究する方法とは異なったものが必要である、というだけのことなのです。
 なお、欧州の階級文明を分析、研究する方法もまた、以上とは異なったものが必要になるわけです。
 そして、米国文明を分析、研究する方法は、それがアングロサクソン文明と欧州文明のキメラ文明であることから、両文明をそれぞれ分析、研究する方法を組み合わせたものが基本的に必要になるわけです。
 (厳密に言えば、アングロサクソン文明の人間主義的側面を分析、研究する方法に関しては、日本文明を分析、研究する方法を流用する必要があります。)(太田)

(続く)