太田述正コラム#10355(2019.2.4)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その13)>(2019.4.24公開)

 「政治は人間の組織化行為である限り、政治の対象とするのは個人でなくて、殆どもっぱら人間集団である。
 そして個々人ではなく集団としての人間を一定の期間に一定の目的に動かさねばならぬ場合には、個人の場合よりもなおさら「取扱注意」的性格は増大する。
 一般に集団を動かす場合、政治家はどうしてもその集団内部の種々の知的・精神的レヴェルの最大公約数の程度まで一旦は下って行かねばならぬ。
 この場合彼の指導性があまりに強すぎると、彼は自己の率いる集団から遊離する。
 といって彼の指導力が弱いと彼は忽ち渦巻の中に巻き込まれる木の葉のように、集団の下層部に沈殿している傾向性にひきずられ、大衆行動の半ば盲目的な自己法則性のとりこになってしまう。
 いわゆるミイラ取りがミイラになる。
 政治は人間を堕落させるというビスマルクの嘆きは、また一つには、この政治の集団性からも来ているのである。

⇒丸山が、一体、いつの時代のいかなる国・地域を念頭に置いた「政治」を論じているのか判然としません・・「政治家」と「被政治家」に二分される単純な社会などありえないけれど、ゲルマン系が君臨する階級社会たる「近代欧州」的なニオイを感じます・・が、仮に戦間期のドイツだとしましょう。
 (この文脈でビスマルクが登場するところからも、時代こそ違いますが、ドイツっぽいですよね。)
 そうすると、直ちに、「政治家」たるナチ指導者達、と、「被政治家」たるドイツ人達との間で、「知的・精神的レヴェル」の「最大公約数の程度」に上下関係などなさそうであることから、丸山の立論の前提が成り立たないことが分かります。
 (太田コラムの長年の読者なら、ヒットラー一人が、知的にはともかく、精神的には、その他のナチ指導者達≒被政治家達よりも上等であったものの、彼らの「行動の半ば盲目的な自己法則性にとりこになってしま」い、ホロコーストが招来されたことを知っていますが・・。)
 ナチ指導者達の、少なくとも知的レベルがその程度のものであることは、戦前においても、彼らの学歴くらいは知られていたと思われることに加え、丸山がこのくだりを執筆した時より前に終わっていたところの、ナチ指導者達に対するニュルンベルク裁判(1945年11月20日~46年10月1日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E8%A3%81%E5%88%A4
における彼らの証言ぶり等の報道からも、丸山は分かっていたはずなのに・・。(太田)

 ところで指導なり支配なりに必要とされる政治権力の強さは、いうまでもなくその対象となる集団の自発的能動的服従の度合と反比例する。
 自発的服従の契機が少ければ少いほど、つまりその政治団体のメンバーに遠心的傾向が強ければ強いほど、それは組織化するのにますます大きな権力を必要とする。
 ところがここに多くの場合相互作用がはたらき、メンバーに対する組織化作用が強制力に頼る度合いが大きければ大きいほど、メンバーの自発的能動的契機は薄れて行き、遠心的傾向が強くなる。
 そこで極めてパラドキシカルな現象だが、極端な無政府状態と、極端な専制とは紙一重だということになる。
 いいかえれば、極端な無政府状態は必然に自己の否定としての強力な専制を招き、逆に専制政治が極点に達するほど、それは必然に自己の否定として無政府状態を内包するようになる。
 メレジコフスキー<(注8)>は・・・凍結した無政府状態–これが君主政体であって、溶解された君主政体–これが無政府状態である<、と指摘している。>・・・

 (注8)ディミトリー・セルギェーヴィチ・メレシュコフスキー(Dmitry Sergeyevich Merezhkovsky。1865~1941年)。「ロシア象徴主義草創期の詩人にして・・・思想家・・・。1884年から1889年までペテルブルク大学にて歴史学と哲学を学び、・・・モンテーニュにより哲学博士号を取得する。・・・
 <日露戦争敗戦>が引き金となり、1905年革命が発生した<時>・・・、信仰改革の前触れとなる宗教的な出来事と見て、自分こそはその預言者であると言い出した。・・・<また、>十月革命の後・・・仮借のないボルシェヴィキ非難を続けた。・・・<更に、>ヒトラー支持の姿勢<をとった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

 無限の権力と無限の放恣との弁証法的な否定的統一関係は、つとにホッブスの指摘したところで、そこには争いがたい真理が含まれている。・・・
 既存の権威が崩壊し、各人の行動の可測性が全く喪失<した>・・・フランス革命<後>の・・・時代からナポレオン独裁が生れたのは・・・政治的状況の典型として<こ>の「法則」の著しい例である。」(51~53)

⇒こういう丸山の主張には普遍性がないのであって、それが一定の意味を持つのは、古今東西の諸文明中、欧州文明とその延長たるロシア文明に関してだけなのです。
 というのも、この両文明の核心的共通属性が階級性にあって、要は、それぞれ、ゲルマン系の支配階級とラテン系/ケルト系ないしスラブ系の被支配階級からなっていて、支配階級と被支配階級のそれぞれの最大公約数の間に、厳然たる知力/体格/文化差(注9)があって、後者は、異質かつ畏怖される存在たる前者に対して、「自発的能動的服従」をする気になどなりえないからです。(太田)

 (注9)知力(IQ)についてだが、純粋ゲルマン系のドイツ、スウェーデンの高さ、と、それぞれ、ゲルマン系とラテン/ケルト系、ゲルマン系とスラブ系の混血であるところの、フランス、ロシアの低さ、
https://brainstats.com/average-iq-by-country.html
また、体格(身長)についてだが、(一般的に、寒冷地住民の方が背が高いということはあるけれど、)同じく、ドイツ、スウェーデンの高さとフランス、ロシアの低さを見よ。
https://www.jleague.jp/special/russia/2018/ranking/height.html

(続く)