太田述正コラム#10357(2019.2.5)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その14)>(2019.4.25公開)

 「以上の逆に、政治団体内部の組織化において、メンバーの自発的協力の要素が極大に達すると、権力の行使は全く不用になる。
 そうしてそれが行使されぬ状態が恒久化すれば、やがて退化の法則によって権力そのものが衰滅してしまう。

⇒丸山に直接尋ねることができたならば、そんな風に受け取ったとすれば、自分が舌足らずだったかもしれない、と弁明するかもしれませんが、丸山は、「メンバー」から「権力者」への一方向だけの「自発的協力」のベクトルしか念頭になく、その太さだけを問題にしているように私には見えます。
 日本文明のような人間主義文明やアングロサクソン文明のような人間主義的文明においては、とりわけ、「自発的協力」のベクトルは、「メンバー」達・・権力者を含む!・・の間で双方向に存在するのですが・・。
 とまれ、こうして「権力そのものが衰滅」まで行かなくとも「衰弱」してしまったのが、日本の平安末期だった、とは言えそうですね。(太田)
 
 無政府主義や社会主義の最後に狙っているところはいずれもかかる状態である。
 ただ無政府主義は、国家権力そのものが社会の自発的協同化を妨げる最大原因であると見て、一挙に国家権力の廃止を説くのに対してマルクス的社会主義は最後の状態に至る過程においては却って集中的権力を必要とする。
 かかる人間観についていえば無政府主義は徹底した性善説であり、社会主義はよりペシミスティックな立場といえよう。

⇒私は、「無政府主義」だの「マルクス的社会主義」だのについて造詣をひけらかすだけではなく、そういった諸イデオロギーが理想視しているところのものと日本とを突き合わせてみた、日本の人文社会科学者・・丸山もそうです・・に遭遇した試しがありません。
 私は、まず、日本の江戸時代が無政府主義的であることに気付きました。
 権力の分有と実働公務員数の総人口に占める割合の低さからです。
 これが、論理必然的に、日本型政治経済体制、すなわち、現在の日本の政治経済体制の無政府主義性という認識に私を導きました。
 そして、その後に私が気付いたのは、マルクスによるところの、原始共産制の回顧と産業社会形成後のそれへの回帰の勧めが、彼の、人間主義的なものへの憧憬に立脚している、ということなのです。
 つまり、マルクス自身の文章を借りれば、「ここ<(私(太田)的には日本!)>がロドスだ、ここで跳べ」
https://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006/e/d81392c6d9d4772bea7cc6640dcabfa8
なのですが・・。(太田) 

 政治は物理的強制を最終的な保証としているが、物理的強制はいわば政治の切札で、切札を度々出すようになってはその政治はもうおしまいである。
 なぜなら政治がその切札で人間集団を動かすの止むなきに至ったときは、それは人間の自発性と能動性に自己を根拠づけることを断念したことを自ら告白しているからである。・・・
 アメリカの政治学者メリアム<(注10)>は、統治者の心性への共感を呼び起すための手段をマイランダ(miranda)と呼んでいる(Political Power<(注11)>.P 102f.)。
 マイランダとは、一般に被治者に治者あるいは指導者に対する崇拝・憧憬を呼び起すものである。・・・

 (注10)チャールズ・エドワード・メリアム(Charles Edward Merriam。1874~1953年)。「アイオワ州生まれ。アイオワ大学卒業後、[ベルリン大学・パリ大学で<も>学<び>]、コロンビア大学大学院で博士号取得。1900年から1940年までシカゴ大学政治学部で教鞭をとる。その間、シカゴ市議(1909年 – 1911年、1913年 – 1917年)<、>[市長の顧問]を務める。 <また、>[第一次世界大戦が勃発してからはイタリアでアメリカの宣伝活動に従事していた。]
 政治学の科学化を推進し、シカゴ学派の代表的論者として知られる。弟子にはV・O・キー、ハロルド・ラスウェルやガブリエル・アーモンドがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E6%A8%A9%E5%8A%9B_(%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0) ([]内)
 前に書いたことがある(コラム#省略)が、私は、スタンフォード大でアーモンドのゼミをとっている。
 (注11)『政治権力』(Political Power: Its Composition & Incidence)(1934年)。この本の中で、「メリアムは政治権力を集団の統合をもたらす機能的な概念として捉えている。権力は多種多様な社会集団の諸関係を媒介しながら調整する機能があり、この機能を果たす権力が近代国家では政府として組織化されている。しかし集団間の関係を調整するだけでなく、各個人の個性を調整する機能もある。個々人の個性を調整する機能は家族、宗教団体、労働団体などの集団を中心に組織化されている。このような社会の局面において出現している権力は、そもそも権力を欲求する権力者が個性として備えている資質と能力から発生するものとメリアムは考えた。これは政治的リーダーシップとの関係から説明されることでもあり、社会においてリーダーシップを発揮する指導者は初期の段階では闘争の技術としての実力に特徴付けられるが、近代社会におけるリーダーシップは象徴と才能によって実践される。ここでの象徴とはさまざまな社会集団や大衆を操作するものであり、才能とは指導者の表現力や合意の創意的な形成、勇気から構成され、個人や集団の支持を獲得するものである。
 さらにメリアムは権力の内容について二つの側面から検討している。権力は暴力と異なり人間の情念に立脚して積極的に服従することを促すものである。権力の基盤はミランダとクレデンタに区別され、ミランダは人間の象徴に対する非合理的な崇拝の感情であり、記念日、記念碑、国歌、国旗、制服、神話、儀式などに基づいた権力はミランダに基づいている。クレデンタは社会で承認された同意に対する合理的な服従の信念であり、この同意は政府への尊敬、既存の権威への服従、公共のための自己犠牲、そして政府による合法性の独占によって基礎付けられる。この二つの権力基盤は実際には別物ではなく、相互に補完し合う関係にある。しかし権力は人々にとって服従ではなく排除の対象ともなりうるものであり、恐怖政治や腐敗、または無能によって権力は抵抗に直面する場合がある。」(上掲)

⇒メリアムは、「注9」からも分かるように、政治の遍在性を指摘しているところ、遍在性説をとらない丸山とこのメリアムの違い・・この点に限らないが・・のよってきたるところは、私に言わせれば、丸山がメリアムとは違って、政治家経験も行政官経験も、そして、戦争に積極的に関わった経験も、ことごとく持たない・・最後の点については、丸山は消極的にしか関わらない選択を積極的にした!・・ところの、純粋書斎人であったことにあります。(太田)

 人智の進歩により、一般の民衆が科学的合理的に思考するようになってくると、魔術的な要素はだんだん消えていき、昔のマイランダはだんだん通用しなくなるがそれにもかかわらず新たな衣装の下に繰り返し現われる。
 国家の行ういろいろな儀式(セレモニー)、あるいは祝祭日とか国旗とかいう要素は、今日でもなお政治的支配者にとって重要なマイランダを形成している。」(53~55)

(続く)