太田述正コラム#10361(2019.2.7)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その16)>(2019.4.27公開)

 「英国のカトリック思想家ドーソン<(注14)>は『宗教と近代国家』という近著の中で・・・現代政治がその本来の領域と考えられるものを越えて、・・・宗教<、すなわち、>・・・個人的内面性を侵害してきたことを激しく攻撃している・・・。・・・

 (注14)Christopher Henry Dawson(1889~1970年)。「イギリスの宗教哲学者,宗教史家,文明評論家。オックスフォード大学卒業後,1914年・・・英国国教会から・・・カトリックに改宗。宗教が社会と個人の精神的根底であるという思想から・・・ヨーロッパを形成したのはカトリック教会であると<し、>中世から近代へかけての文化の根底がキリスト教的価値観に由来することを証明しようとした。・・・また進歩の観念による宗教の世俗化がヨーロッパの没落の原因であるとして近代批判を展開。主著『進歩と宗教』 Progress and Religion (1929) ,『ヨーロッパの形成』 The Making of Europe (32) ,『宗教と近代国家』 Religion and the Modern State (35) など。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3-105251

⇒イギリスの識者達の中にも、ホッブスやこのドーソンのような、欧州文明かぶれの酔狂者もいるってだけのことです。
 ドーソンの理屈は、もともと世俗的なイギリス(アングロサクソン)が、彼が生まれる頃まで全球的覇権国たりえた事実一つ取っただけでも成り立ちません。(太田)

 この傾向が絶頂に達するものが共産主義である<、と>。・・・
 しかし・・・中世教皇制が宗教の政治化であるのに対して現代のイデオロギー国家は政治(国家)の宗教化、教会化にほかならない。
 だから社会主義をば「善」への強制的組織化という意味においてカトリック主義の直系と見たドストエフスキー<(注15)>(『作家の日記』<(注16)>)の方がむしろ逆説的にある真実を語っている。

 (注15)1821~81年。「当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教、ことに正教に基づく魂の救済を訴えているとされる。実存主義の先駆者と評されることもある。・・・
 ユダヤ人を批判する反ユダヤ主義的な主張を死去するまで繰り返し、また・・・アーリア人種を全人類的に再結合することはロシア人の使命であ<る、>・・・と主張した。・・・
 ナチス・・・の国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスは「ドストエフスキーの後についていく」というほど深い影響を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
 (注16)「『作家の日記』・・・は本来の日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含<む。>」(上掲)
 
⇒アングロサクソンのあぶれ者たるドーソンといい、フィクション作家でプロト・ファシストたるドストエフスキーといい、丸山のこのあたりの、アウトサイダー的諸人物の言の引用は、学術的論考にふさわしいものとは私は思いません。(太田)

 恐らく人格的内面性の立場から最も徹底した抗議をなしうるのはラジカルなプロテスタント、例えば無教会主義者であろう。」(59~61)

⇒キリスト教において、聖書プラスαに立脚して宗派が構築したドグマ(カトリック)、か、聖書のみないし聖書プラスαに立脚して宗派が構築したドグマ(非ラジカルなプロテスタント)、か、はたまた、聖書のみに立脚して自分自身が構築したドグマ(無教会主義者)、か、など、大同小異でしょう。
 また、丸山が、「人格的内面性」の社会性を無視しているかのように感じられる・・もとより、私の深読み過ぎである可能性は否定しません・・のですが、人間は、生まれ以上に育ちが重要なのであって、育ちの中で、親との関係において、生まれ落ちた社会の言語や規範を身につけるところ、人間自身が、本来的には人間主義的であることからすれば、「人格的内面性」は二重に人間(じんかん)的、すなわち、かかる意味において社会的な存在であるわけです。
 以上を踏まえて、私が言いたいのは、「人格的内面性の立場から最も徹底した抗議をなしうる」のは、ラジカルなプロテスタントならぬ、人間主義者であって、その抗議の対象は、非人間主義的なあらゆる人々、であり、その中には、「無教会主義者」等、ドグマによって自身を律する者達が含まれる、ということです。(太田)

(続く)