太田述正コラム#796(2005.7.18)
<生殖・セックス・オルガスム(その2)>
3 改めてアングロサクソンの結婚観について
このような、性科学の最新の成果(注4)に接すると、改めてイギリス人(アングロサクソン)の結婚観の「先進性」を思い知らされます。
(注4)それにしても、まだまだ性科学は遅れている。http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/women/kitamura/(7月16日アクセス)を読んであきれてしまった。
イギリスは、昔から個人主義社会であり(注5)、「イエ」の必要性も、従って観念もない、極めてユニークな社会でした。
(注5)個人主義社会、という言葉で分かったような気になる前に、ぜひ過去の「アングロサクソン論」シリーズ、就中「豊かな社会」に関するコラム#54、「反産業主義」に関するコラム#81、そして「個人主義」そのものを扱ったコラム#88、89、に目を通していただきたい。
つまりイギリス人の両親は、子供に対し、家内労働力として期待することも老後の扶養・介護者として期待することもありませんでした。子供はペット以外のなにものでもなかったのです(注6)。ですから、イギリス人男性にとっての理想は独身で一生を終えることであり、結婚はどうでもよいことでした。(コラム#54)
(注6)当然、イギリスは、昔からバースコントロールに血道をあげる少子社会であり、静止人口社会だった。近代の一時期にイギリスの人口がかなり伸びたのは、例外的現象にほかならない。
男性が結婚するとすれば、相手の女性が、若年の頃は情婦、中年の頃は友人、晩年には看護婦、となってくれるかどうかを慎重に見極めた上でのことでした。女性の方は女性の方で、その男性の持つ(顕在的または潜在的な)経済力や社会的地位によって自分がどれだけメリットを受けられるかを慎重に検討しました。そして、両者の条件がぎりぎり折り合った時に、婚姻契約を結んだ、つまり結婚したのです(注6)。(コラム#88)
(注6)イギリス人男性にとって、独身が理想とされた理由はお分かりだろう。結婚すれば、仕事に注ぐべき時間とエネルギーのかなりの部分を妻や子供に奪われてしまう。むしろ仕事に専念し、そのことによって経済力や社会的地位を確保しつつ、友人は経済力や社会的地位によって相対取引で獲得し、情婦や看護婦は公開市場で経済力を用いて購入することとした方が「男らしい」・・ハイリスク、ハイリターンを求めるのが男性の性(さが)だ・・からだ。
注意すべきは、子供のことは、婚姻契約を締結する際の計算の中に全く登場しないことです。
ペットたる子供をつくるかどうかは、特定の趣味(消費財)にカネを出すかどうかの問題であり、夫婦となった男女がたまたま子供という消費財に係る選好(趣味)を共有しておれば、結婚後子供をつくる、というだけのことです。子供がいても養子をもらう人が少なくないことも、アングロサクソンにとって子供がペットであることを示しています。
このようなイギリスの結婚制度は、最新の性科学が明らかにした上述の男女の性的不均衡を踏まえた、まことに合理的な制度であることがお分りいただけると思います。
(契約時点においては、若年の頃のリターンの方が割引率の関係で圧倒的に大きな考慮対象となることから、)イギリス人の婚姻契約(結婚)の核心部分は、男性の提供する経済的・社会的メリットと女性の提供するオルガスムの交換だからです。
このような合理性を内包したイギリスの結婚制度は、近代婚姻制度として、アングロサクソンの世界制覇のプロセスと平行して、世界に普及していくことになります。
このことが、不可避的にもたらしたのが、アングロサクソン文明を継受したアングロサクソン的社会における婚姻率の低下、少子化、そしてその病理現象としての人口減少なのです。
それだけではありません。
アングロサクソン社会やアングロサクソン的社会は現在、婚姻制度の崩壊という新たな問題に直面し始めています。
産業社会の成熟化に伴い、財・サービスの生産が膂力とは殆ど関係なく行われるようになったことから、経済力や社会的地位を得る上での男性の女性に対する比較優位性が突き崩されてしまったことが原因です。女性は自分自身の力で経済力や社会的地位を獲得する方がコストエフェクティブになったのです。
この結果、女性にとって、結婚するメリットが殆どなくなってしまいました。
つまり、婚姻率の低下どころか、近代婚姻制度そのものの崩壊が避けられなくなったのです。
(続く)