太田述正コラム#805(2005.7.27)
<英国の「太平洋戦争」への思い(その1)>
(本篇は、7月25日に上梓しました。)
1 始めに
対日戦勝利60周年ということで、英国で改めて「太平洋戦争」の回顧が行われています。
回顧の焦点は、受けた被害に係る日本軍による英軍等の捕虜虐待と、加えた禍害に係る米軍による日本の都市への戦略爆撃、の二つです。
一体それはどうしてなのでしょうか。本シリーズは、これを解き明かそうとする試みです。
2 日本軍による捕虜虐待
3月9、10日は、東京大空襲60周年ですが、3月13日付の英オブザーバー紙に日本軍による英軍の捕虜虐待についての記事(http://observer.guardian.co.uk/international/story/0,6903,1436385,00.html。3月14日アクセス)が掲載されました。また、8月6日と9日は原爆投下60周年ですが、8月14日付の米ワシントンポスト紙に、日本軍による欧米軍の捕虜虐待を扱った英国人による本の書評(評者は日系米人!)(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/07/21/AR2005072101868_pf.html。7月24日アクセス)が掲載されました。
前者の記事も後者の本も(たまたま「記念日」の前後に掲載・発売されたものですが、)英国人の手になるものであることは偶然とは思われません。
以前から(コラム#506等で)申し上げてきたことですが、対日戦については、英国は形の上では勝利したものの、日本によって大英帝国を瓦解させられた上に、戦後はそれを奇貨として米国によって(最後まで残っていた)金融覇権まで奪われてしまい、実質的には敗戦の憂き目を見たと言って良いでしょう。しかも、(植民地主義ないし帝国主義だ、あるいは未練たらしい、といった非難を受けたくないので、)その恨みを日本や米国にストレートにぶつけるわけにはいきませんでした。
だからこそ、英国人の心中においては、米国人とは違って、対日戦の記憶が怨念と化してわだかまり続け、このたび、日本への恨みが捕虜虐待の声高な非難に(注1)、米国への恨みが戦略爆撃への婉曲的な批判に(注2)、形を変えて現れたと考えられます。
(注1)戦前の日本はジュネーブ条約に加盟していなかったが、捕虜の取り扱いについては条約の内容を遵守する旨誓約していた(「洪思翊中将の処刑」文藝春秋1986年。コラム#265、382)。いずれにせよ、捕虜虐待は日本軍にとっても「違法」な行為だったと言えよう。もっとも、客観的に見て、その「違法性」の程度は、英米が日本に対して行った戦略爆撃、就中原爆投下の「違法性」の程度とは比較にならないくらい軽い(後述)。
(注2)ただし、英国も対日戦略爆撃には連帯責任がある(後述)。
日本が行った捕虜虐待は、どれほどのものであったのでしょうか。
シンガポールで5万人の英軍と豪軍、ジャワで5万2,000人の蘭軍と英軍、フィリピンで2万5,000人の米軍、計13万2,142人が戦争初期に日本軍の捕虜になりました。
その大部分はその後3年半にわたって収容所生活を送ったのですが、うち実に27%がその間に死亡しました。これに対し、ナチスドイツ軍の捕虜になった英軍と米軍の死亡率は4%にとどまっています(注3)。
(注3)ただし、先の大戦末期にナチスドイツ軍の捕虜になったユダヤ系米兵350人は、日本軍による欧米捕虜並の過酷な扱いを受け、71人も死亡した(http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2005/07/21/AR2005072101849_pf.html。7月24日アクセス)。
日本軍の捕虜で亡くなった人の三分の一(1万2,000人)は、泰緬鉄道の建設によるものです(注4)。
(注4)泰緬鉄道の建設では、このほか、徴用された原住民10万人が死亡している。
捕虜(や徴用された原住民)達は、過酷な労役・不十分な食事・劣悪な衛生状態・体罰と拷問や処刑、によって次々に斃れて行ったのです。
日本軍の捕虜であった英国人で現在まだ存命している人々の多くは、日本人との和解を拒み続けています(注5)。こんな話は、日本軍の捕虜であった米国人については、ほとんど耳にしたことがありません。英国人の怨念の深さが推し量れますね。
(以上、特に断っていない限り、ガーディアン上掲及びワシントンポスト上掲による。)
(注5)日本軍の捕虜であった英国人またはその寡婦には、戦後随分時間が経ってから、補償金1万英ポンドが英国政府から支払われた。
(続く)