太田述正コラム#10395(2019.2.24)
<丸山眞男『政治の世界 他十篇』を読む(その23)>(2019.5.14公開)
「さてここで先程あげたいろいろの社会的価値の中に権力も入っていたことを思い出してください。
権力は他の社会的価値(例えば経済的利益)をめぐる抗争の手段として用いられると同時に、それ自体、独自の社会的価値として追求の目標になります。・・・
ここに権力の自己目的化、即ち権力の為に権力を追求するという政治に顕著に見られる傾向が発生するのです。
・・・ホッブスは・・・人間の一般的な性向として「死に於てのみ已むところの、不断の止むことない権力への欲望」を挙げました(Leviathan.PartI.chap.XI)。
これはもともとホッブスの悲観的人間論から出て来る結論ではありますが、ホッブスの政治思想家としての偉大な点はこの無限の権力追求の根拠の説明に当って、「それは既に得た以上に強度な喜びを望む為でもなければ、程良い権力に人間が満足しない為でも無く、より以上の権力を得なければ現在持っている権力をも確保出来ない為である」(同上)としている点にあるのです。
ここに権力特有の力学があります。
つまり権力というのは決して絶対的=固定的な存在ではなく、常に他の権力との関係に於ける相対的な力なのですから、諸々の権力が張り合っている状況に於ては、権力は自己の維持の為にもより多くの権力として現われざるを得ないのです。
われわれは国際政治に於て、いやというほどこの実例を見ております。
イギリスはインドを守るためにスエズを抑えなければならなかった。
ところがスエズを抑える為にはエジプトをコントロールする必要が生じた。
さらにエジプトを守る為にはスーダン・マルタ・サイプロス[キプロス]・ジブラルタルを確保するということになった。
⇒極めて誤解を生む記述です。
というのも、英国の、ジブラルタルの領有(1704年占領、1713年西から割譲)
https://en.wikipedia.org/wiki/Gibraltar
も、マルタの領有(1800年占領、1814年仏から割譲)
https://en.wikipedia.org/wiki/Malta
も、スエズ運河開通時(1869年)どころか、いや、着工時(1859年)どころか、仏人レセップスへのオスマントルコのエジプト太守からの着工許可時(1854、1856年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Suez_Canal
よりもずっと前に行われた上、そもそも、英国はこの運河建設には反対していたからです(上掲)。(太田)
日本帝国は朝鮮を防衛する為に満州を生命線と宣言した。
ところが満州を現実に支配すると、今度は北支を勢力範囲に入れねばならなくなった。
北支の安全を確保する為には、更に中支に進出せざるを得なくなった。・・・
⇒イギリスのインド進出よりもはるかに前からのロシアの中央アジアや北東アジアへの進出から、北東アジアにおける例示を始めていないどころか、それに触れてすらいない、のですから、丸山の、日本における横井小楠コンセンサス的なものに対するところの、意識的か無意識的かまでは分からないものの、直視回避の姿勢は明らかです。
いずれにせよ、日本の明治維新以降の対アジア政策を、ホッブスの上出の視点だけで説明しようとしているところに丸山の限界が露呈しています。
その結果、利己主義的ではなく人間主義的であったところの、島津斉彬コンセンサス的なものに至っては、丸山の視界に入ってくることさえありえなかった、というわけです。
そうである以上、ホッブスの上出の視点から行われてきたところの、米英や露(ソ)の北東アジアにおける言動を逆用し、それにつけ入ることによって、米英に、日本に(軍事的には究極的敗戦必至の)対米英開戦を「行わざるを得ない」名目を作らせるためにこそ、日本が満州事変を起こし、北支・中支「侵攻」を行う、という杉山構想的なものなど、丸山が存命で私が彼に説明しようとしたとしても、彼は、荒唐無稽だとして、説明を聞くことすら拒んだことでしょうね。(太田)
現在の国際社会の様に地球上の空間が残りなく大国の力関係に依ってコントロールされている時には、力の拡張の何処迄が防御的で、何処迄が攻撃的かという限界は甚だつけ難いのです。
もとより、上のような権力拡張には、とくに資本主義国の場合には掘り下げて行けば市場の拡張といった経済的要請が横たわっているにしても、国際的な緊張が高度化すればするほど、むしろ直接的に、権力の確保発展自体が目標となり、権力の自己目的化という現象が露骨になってまいります。
純経済的な打算からいえば必ずしも有利でない後進地域の資本援助が政治的軍事的拠点の確保という観点から行われるのもこのためです。」(85~88)
⇒これは、ロシアや日本にはある程度あてはまっても、イギリスには必ずしもあてはまらないことを、私はかねてから指摘してきたところです。(コラム#省略)
(続く)