太田述正コラム#808(2005.7.30)
<男女平等を考える(その1)>
(本篇の上梓は、7月27日です。)
コラム#751でデビューを飾った上田令子さんによるコラム第二弾を掲載します。
太田述正
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江戸川ワークマム 代表
上田令子
1 差別を経験して奮起
私は大学卒業後務めたオランダ系外資保険会社を皮切りに転職すること8回。結婚後も仕事を続け現在は小学5年と年中の男の子二人を抱え、夫と義父母と同居しており、いわば仕事人、妻、母、嫁、主婦といった世の女性の和集合を生きているといって良いのかもしれません。
働きながら子育てをする過程でたくさんの障壁に遭遇し、自分自身の問題だけではないと平成11年に働きながら子育てをしている世帯を中心としたネットワークグループ「江戸川ワークマム」(http://www.geocities.jp/edoworkmom/)を設立。「働くカーチャンの用心棒・必殺仕置き人」を自負しており働くカーチャンの広告塔?として行政および各方面に働きかけたり講習会やイベントを実施、また個別の相談に乗ったりしてきました。こうした活動を評価いただき平成17年には病気により辞退した立候補者のピンチヒッターとして急遽東京都議選へ千代田区から民主党の公認候補として出馬する機会も得ました(http://www.ueda-reiko.com/)。(結果は残念ながら落選。)
何不自由なく大学まで出て、バブル入社、花のOL時代を満喫しどちらかといえば時流に乗り享楽的に過ごしてきた問題意識がなかった私をここまで駆り立てたには、それなりの理由と原因がありました。まず、第一子出産時に育児休業法に則り、制度を利用しようとしたら当時の上司に「社則を悪用するな。普通は結婚したら退職するのが女性のたしなみだ」と怒鳴られ退職を迫られたこと、居住した江戸川区では保育園の待機児童が多く子どもの預け先探しに苦労したこと、まわりから「こんなに小さいうちから預けて可哀想」だの「女は家庭を守って一人前」だの「自己実現のために子どもを犠牲にするのか」だの口は出すくせに手を出さない第三者の無責任で不用意な言葉を浴びせられ、「これじゃー誰も子ども産まない!というか産めない!自分だけの問題ではない」と一念発起したというわけです。
そうして、やがて私が遭遇してきた問題(保育問題や女性の雇用問題)の根元は一つの枝葉の現象に過ぎない、日本が抱えている問題そのものを解決しなければ対症療法にしかならないと気づきました。
大局的に結果をジワジワと、でも確実に出していくために何か効率的な行動をしたいと無い知恵をしぼってのたうちまわった結果たどりついたのが「ニッポンのカーチャンの民度を上げる!」ということでした。
一人ひとりが民度の高い国でないと国や町や家族や家庭を守りお互いを尊重しあって幸せに暮らせないからです。
そしてその国の民度はその国のカーチャンで決まると私は思っています。働き者で賢く強く美しく優しい、それが正しいカーチャン。トーチャン一大事の時それを支えずしては女がすたる!ひいてはカーチャンが良き母であり美しく賢い妻であるということはその国のトーチャン、男性のレベルを上げていくと考えるに至っております。女性を虐げていては男女どちらのためにもならないわけです。それ故男女が平等な条件を有するのは当然であります。しかし、今の日本でそれをどう実現するのでしょうか? 考えてみたいと思います。
2 意志決定機関に女性が増えない「なぜ?」?サマーズ発言より?
昨年度、私は江戸川区の男女共同参画推進委員として行動計画への提言策定に携わりました。男女共同参画の考え方として世界的に決定権を持つ立場の女性の割合を3割にしよう動きがあります。提言の中にまずは江戸川区の女性職員の役職者を3割とする目標をあげるべきだという意見が他の委員から出ました。
そこで、事務局側は「我々は公務員であるから本人が希望すれば昇進はできる。女性の役職へのチャレンジを全く阻害していない。数値目標をあげる意味がない」とこの提言に難色を示しました。
私は数値目標をあげるか、あげないかを決定するのは委員側に意志決定権があり事務局には拒否権はない、それなのに拒否した事務局の逸脱行為に関しては指摘しましたが、数値目標については声高に賛成することができない自分がいました。本年1月のサマーズ発言(注)で問題視されたように、女性には昇進するために「犠牲を払う意志のある人が少ない」という事実です。私はそれを批判的に見るというより「そこまでの犠牲を払いたくない意志」があるのではないか…と思ったからです。注意しないと、「だから女はダメだ、責任のある仕事をしない、できない、才能がないのだ!」から始まり、それを受けて「幼い頃からの刷り込みのせい!女性本人の意志ではない!男性社会のご都合主義の犠牲」とやり返す不毛な議論が行われてしまうのですが、これもまた私には違和感があります。
(注)2005年1月、米ハーバード大学のラリー・サマーズ学長が研究者の多様性をテーマにした会合で科学分野において女性教授陣が少ないことについて「男女の差異」を理由のひとつにあげ、科学者らから猛烈な抗議と批判を受けた。それを受けサマーズ氏は謝罪し、5月中旬教授陣の多様性を高め、女性科学者の後押しをする対策に10年間で5000万ドルを投じるという声明を出している。(参考:太田述正コラム#600(http://www.ohtan.net/column/200501/20050120.html))
昇進する意志のある女性も中には居て、実際にそういう仲間が機会を奪われひどい目に遭っていることも痛いほど知っているので機会を広げる手段としての「数値目標」があってもいいと思いますが、「数値目標」それ自体が目標となっては本末転倒ではないでしょうか。
<太田のコメント>
上田さんの体験論的ご指摘には重みがありますが、私は自分のHPの「主張」の中でも、働く女性に対するアファーマティブ・アクションの必要性を訴えており、日本の大組織は、女性登用の数値目標を設定すべきだ、と考えています。
というのは、私は、男性と女性の本来的差異は当然認めつつも、(今具体的なデータの持ち合わせがありませんが、)日本の女性の社会進出面での遅れが、「先進」諸国の中で余りに甚だしいことからも、日本に牢固とした女性差別構造が存在していることは間違いない、と見ているからです。
実際中央官庁では、(キャリアたる女性を除き、)女性職員一般に対する昇任・異動面での明確な差別があります。地方自治体でも、事情は同じであろうと思います。
様々な訴訟を通じて明らかなように、大企業の中での差別はもっとひどいのが実態です。
女性の「そこまでの犠牲を払いたくない意志」は、このような差別構造の下で培われた部分が相当あるのではないでしょうか。
この嘆かわしい状況を打破するためには、ドラスティックな措置が必要だ、と私は考えているのです。
もとより、アファーマティブ・アクションはできるだけ早期に撤廃することが望ましいでしょう。アファーマティブ・アクションは、あくまでも意識改革を促すことにより、日本を、男女分け隔てなく個々人の能力と意欲に応じて人事評価が行われるような社会にすることが目的なのですから。
(続く)