太田述正コラム#10417(2019.3.7)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その8)>(2019.5.25公開)

 「・・・乃木<希典は、>・・・1877年、28歳で初めての指揮官として戦場に立った時、薩摩藩の叛乱軍に包囲され、片手片足を失<った。>・・・

⇒乃木は、「幼少時・・・左目を負傷して失明し<、>・・・西南戦争<中、>・・・負傷により、左足がやや不自由とな」った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8
というのに!(太田)

 明治天皇は、裕仁の大兄たちに自分が好感すら持っており、国家の重責を託すに足るようにと育成していたことを公然の事実としていた。彼はことに、邦家――孝明天皇の顧問であった朝彦親王の父親――の四人の孫たちをひいきとしていた。その証拠には、明治天皇は、うまい数字<合>わせのような正確さで、自分の娘たちを彼らと結婚させた。すなわち、邦家の六番目の孫の竹田に六番目の娘の昌子〔まさこ〕を、七番目の孫の北白川に七番目の娘の房子〔ふさこ〕を、八番目の孫の朝香に八番目の娘の允子〔のぶこ〕を、九番目の孫の東久邇に九番目の娘の聡子〔としこ〕という具合である。
 そして、これらの若者たちへの期待を明示するために、明治天皇はこれらの最初の三つの結婚式――1905年、1909年、そして1910年――に自ら出席した。・・・
 1911年のある日、東久邇は胃の具合が悪く、幕僚大学への入試の勉強があったため、明治天皇の招待を断った。宮廷の馬車はともあれ彼を迎えにやってきたが、それを空のまま送り返して問題となった。侍従が彼の屋敷にやってきて、孝行について説教をした。東久邇はそれに、孝行は儒教の世界のことと見なされている西洋に移民できたらよい、と反抗的に応じた。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_06_2.htm

⇒検証する労を惜しみましたが、ある程度事実だとして、興味深いものがあります。
 なお、当然のことながら、幕僚大学は陸軍大学でなければいけません。(太田)

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[皇族軍人]

 表記について、基本的な決まりは以下の通りだ。

 「大日本帝国憲法下においては、天皇は「大日本帝国陸海軍の大元帥」として統括する立場にあり、皇太子及びその後継の血縁男子は成年に達するないしはそれに見合う年齢になったとされると将官に任じられた。これは、・・・<英>王室をはじめとした<地理的意味での欧州>の立憲君主国の慣例に倣って、明治・大正・昭和戦前期日本の皇室でも実施されたものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E6%97%8F%E8%BB%8D%E4%BA%BA
 「<なお、>旧憲法下では、<皇族は、>皇太子と皇太孫<は18歳、>それ以外・・・は満20歳になると同時に自動的に貴族院議員とな<ったが>、成年男性の皇族は原則として軍人であることから、皇族議員が議事に加わることは稀であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0%E5%AE%AE%E5%B4%87%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 一般皇族については、既に触れてきたところだが、諸天皇や直宮達についても、ここで触れておこう。↓

 大正天皇(1879~1926年)。虚弱体質であったからか、「満18歳となり、貴族院の皇族議員となった」が軍人教育や軍人への任官はなかったようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
 昭和天皇(1901~89年)。「1912年・・・(大正元年)9月・・・「皇族身位令」の定めにより11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。・・・1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。1915年(大正4年)10月、14歳で陸海軍中尉に昇任。1916年(大正5年)10月には15歳で陸海軍大尉に昇任し、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い、正式に皇太子となった。
 1918年(大正7年)・・・4月29日に満18歳となり、・・・貴族院皇族議員となった。1920年(大正9年)10月に19歳で陸海軍少佐に昇任し、・・・1921年(大正10年)2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。・・・1921年5月9日、イギリス国王ジョージ5世(現:エリザベス2世女王の祖父)から「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された。同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称した。・・・
 10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した。・・・1925年(大正14年)・・・10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
 秩父宮雍仁親王(やすひとしんのう。1902~53年)。「1909年(明治42年)4月に学習院初等科入学、学習院中等科2年修了後、皇族身位令に基づき陸軍中央幼年学校予科第2学年に・・・編入した(19期)。・・・
 1920年(大正9年)10月、陸軍士官学校に入学した。・・・卒業後1922年(大正11年)10月に陸軍少尉に任官した。
 1928年(昭和3年)12月に陸軍大学校に入学、1931年(昭和6年)11月に卒業した(43期)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E5%AE%AE%E9%9B%8D%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 高松宮宣仁親王(のぶひとしんのう。1905~87年)。「1920年(大正9年)4月、学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。・・・1921年(大正10年)8月24日、海軍兵学校本科に編入(52期)。1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業・・・海軍大学校に入校(・・・34期)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%AE%A3%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 三笠宮崇仁親王(たかひとしんのう。1915~2016年)。「学習院初等科・中等科を経て、1936年(昭和11年)に陸軍士官学校(第48期、兵科:騎兵)を卒業。・・・陸軍騎兵学校を経て、・・・陸軍大学校(第55期)を卒業する。
 1935年(昭和10年)に成人したことに伴い貴族院議員となる。」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%AC%A0%E5%AE%AE%E5%B4%87%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B 前掲

 以上から、皇太子予定者だけには臨時の教育機関を設置して陸海軍軍人教育を行った上で陸海軍将校に、弟達は陸軍士官学校か海軍兵学校に入れて軍人教育を行った上で陸軍か海軍の将校に、任じたことが分かる。
 こんな「差別」をして、皇太子が亡くなったらどうするつもりだったのか、という心配をしてしまうが、いずれにせよ、こういった人々を含め、全皇族の男子子弟達が原則として軍人教育を受け、将校に任官していたことが、軍人の社会的地位を高止まりさせ、そのこともまた、陸軍士官学校(正しくは陸軍幼年学校)や海軍兵学校の一高等旧制高校等への比較優位を維持せしめた、一つの大きな要因であった、と見てよかろう。
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(続く)