太田述正コラム#10419(2019.3.8)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その9)>(2019.5.26公開)
第七章 皇太子裕仁
「裕仁の32歳の父親、嘉仁皇太子は、中国に生じている革命〔1912年中華民国成立〕で、千載一遇のチャンスが無駄に費されていると見た。彼は天皇となったばかりか、二分された中国をひとつづつ手に入れようと、その機会に乗じようとしていたが、そうは行かずに、北京では袁世凱が権力を握・・・る一方、日本では、陸軍長老の山縣と明治天皇の寡頭政治家の生存者がそれを支配していた。・・・
⇒無茶苦茶です。
バーガミニが、(私が唱える杉山構想ならぬ)昭和天皇構想的なものをでっち上げるために、宮様達だけでは不足とばかり、(引用しませんでしたが)孝明天皇、(後から出て来る)明治天皇、そして、大正天皇、まで、妄想を膨らませて狩り出した、といったところですね。(太田)
事情通の貴族たちによれば、乃木大将は誇りがゆえの切腹をとげたいと思っていた。彼は裕仁を皇太子に選ぶことに反対するよう助言し、その助言は否決された。彼には、自分の生徒によって拒絶された自身を知りつつ生きることは堪えられないことだった。」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_30_07_1.htm
⇒ここも無茶苦茶です。
乃木の事績の中にそれを伺わせるようなものは皆無ですからね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8
もう、読むのを止めたくなったけれど、とにかく、耐えがたきを耐え、最後まで続けることにしました。(太田)
「・・・桂太郎大将・・・は、1901年から1906年および1908年から1911年まで、首相を務めた。彼は、1900年以来、選挙の度に、立憲主義者〔立憲政友会〕に対抗して、天皇と陸軍を繰り返し代表した。1900年に彼が台湾総督となった際には、マラヤ、インドネシア、フィリピン方面への南方拡大計画を入念に草案した<(注13)>。
(注13)桂が台湾総督に任命されたのは1900年ではなく1896年であり、同年、「台湾統治ニ関スル意見書」
< http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i14/i14_a0111/index.html >
を提出しているが、それ「は「北守南進」論を踏まえたものであった。列強による<支那>分割という当面の現実を目の当たりにして、日本もまた<支那>南部、とりわけ福建一帯の地を確保することを基本方針として、台湾はその拠点として位置付けられる。こうした目的を達するにはまず台湾統治の安定化と殖産興業が必要となる。」という内容だった。
http://formosanpromenade.blog.jp/archives/73433841.html
⇒「注13」からも分かるように、桂の意見書は、「北守南進」からイメージされるような、「マラヤ、インドネシア、フィリピン方面への南方拡大計画」ではありません。
なお、「桂が主唱したこうした北守南進論に基づく台湾統治方針は、後に台湾総督へ就任する児玉源太郎によって具体化されていく。・・・<そして、>桂・児玉たち山縣有朋閥と衆議院第一党たる憲政会と<は>北進南守論で一致していた・・・1900年、北清事変に乗じて、参謀本部の寺内正毅、台湾総督児玉源太郎、民政長官後藤新平らの画策により、厦門事件が起こる。厦門の東本願寺分教場の放火事件(台湾総督府の謀略と言われる)を口実に、総督府は陸軍部隊を派遣、福建沿岸部を保障占領しようと目論んだが、<英国>をはじめとした列強の介入や伊藤博文の猛反対により、結局、途中で引き返さざるを得なかった。台湾対岸の福建方面への勢力扶植を図った点では桂の主張と相通じており、当時、陸相だった桂も天皇の允許を求める際に協力したが、謀略工作そのものには関わってはいなかったようだ」(上掲)とされており、桂が後に、(拓殖大学の前身たる)台湾教会学校・・建学の精神は、「積極進取の気概とあらゆる民族から敬慕されるに値する教養と品格を具えた有為な人材の育成」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E6%AE%96%E5%A4%A7%E5%AD%A6 ・・
を設立したことからも、桂は、同じく山縣閥であった児玉源太郎ともども、島津斉彬コンセンサス信奉者だった、と言えそうです。
(寺内や後藤もそうだったかどうかについては、判断を保留しておきます。)(太田)
彼はそれを明治天皇とその寡頭政治家に提出したが、その実行は、帝国の北方国境でのロシアの脅威がなくなるまで延期されるべきであると申し渡された。
⇒バーガミニは、厦門事件のことを盛り過ぎている、と言わざるを得ません。(太田)
だが1912年8月の今、日露戦争に勝利し、時期が到来したと見られていた。
明治天皇の死の知らせと大正天皇からの召還を受け取った時、桂は偵察の目的でロシアにいた。急きょ帰国し、大正天皇よりすぐさま、宮廷の侍従長と内大臣に任命された。その第一の職務では、彼は天皇への謁見者のすべてを決め、もうひとつの〔職務の〕特権では、謁見に同席し謁見者の質問への答えを準備した。
大正天皇の施策の柱は、「国家防衛の完璧さ」というもので、朝鮮を含む帝国建設を視野に入れた軍事力の構築であった。大正天皇と貞愛親王の示唆にもとづき、陸軍参謀本部は、朝鮮に駐留するため二師団を増強するよう扇動を始めた。西園寺首相に率いられた立憲政友会は、それを支える財政支出拡大に反対した。・・・
1912年12月21日、ついに大正天皇は憲法上の力をフルに発揮させ、桂侍従長兼内大臣を新首相に任命した。・・・
⇒実際は、「2度の内閣での実績を盾に山縣からの自立を図り、さらに反政友会勢力を結集させた「桂新党」までも視野に入れた桂だったが、山縣はそれを許さなかった。山縣は、明治天皇の崩御(死去)により急きょ海外視察から帰国した桂に「新帝輔翼」の重要性を説き、内大臣兼侍従長として宮中に押し込めることで桂の政治的引退を図った。だが、二個師団増設問題<(注14)>を桂は巧みに利用し、第2次西園寺内閣の倒閣後、山縣自らが桂を擁立せざるを得ない状況へと誘導する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E
であったのであり、(「注14」も参照していただきたいが、)大正天皇の出番などどこにもありませんでした。(太田)
こうした大正天皇のクーデタは、大衆による抗議の風を巻き起こした。彼の寵臣、桂大将は、国会で「玉座を以て胸壁となし」、つまり、天皇は自らの特権を乱用して桂を利用している、と非難された<(注14)>。・・・
(注14)「大正元年(1912年)12月、第2次西園寺公望内閣の陸軍大臣だった上原勇作が陸軍の二個師団増設を提言する。しかし西園寺は日露戦争後の財政難などを理由にこれを拒否した。すると上原は単独で陸相を辞任してしまう。当時は軍部大臣現役武官制で現役の大将・中将しか陸海軍大臣にはなれなかった。この規定により、後任の陸相を据えることができなかった西園寺内閣は、こうして内閣総辞職を余儀なくされてしまった。
西園寺の後継内閣には、陸軍大将の桂太郎が第3次桂内閣を組閣することとなった(このとき桂に対して海軍大臣の斎藤実は「海軍拡張費用が通らないなら留任しない」と主張し、桂は大正天皇の詔勅で斎藤留任にこぎつけている)。これを、山縣有朋の意を受けた桂が陸軍の軍備拡張を推し進めようとしたものとみなし、議会中心の政治などを望んで藩閥政治に反発する勢力により、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする憲政擁護運動(第一次)が起こされた。
立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅らは、お互いに協力しあって憲政擁護会を結成する。
大正2年(1913年)2月5日、議会で政友会と国民党が桂内閣の不信任案を提案する。その提案理由を、尾崎行雄は次のように答えた。
彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか— 『大日本憲政史』より
桂は不信任案を避けるため、苦し紛れに5日間の議会停止を命じた。ところが停会を知った国民は怒り、桂を擁護する議員に暴行するという事件までが発生する。だが、桂もこれで黙ってはいなかった。尾崎行雄らに対して詔勅を盾にして不信任案を撤回するように圧力を加えたのである。尾崎はやむなくこれを了承するしかなかった。・・・
桂の・・・態度に怒り狂った群衆は、国民新聞社や警察などを襲った。さらにこの憲政擁護運動は東京だけでは収まらず、関西などにおいても新聞社や議会の邸宅が襲われるなど、各地で桂内閣に反対する暴動が相次いだ。このような中での2月11日、桂内閣は総辞職を余儀なくされたのである。
大日本帝国憲法の下で、大衆運動で内閣が倒されたのはこのときだけである。そのため、このことは大正政変とも呼ばれ、藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すこととなったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E6%86%B2%E9%81%8B%E5%8B%95
⇒第一次世界大戦が始まる前の時点で、この大正政変が起きたわけですが、これは、私見では、マクロ的に見れば、いずれも島津斉彬コンセンサス信奉者達であるところの、山縣、桂といった、陸軍系の維新の元勲達が、陸軍内の上原といった首脳達と連携しながら、将来のアジア解放戦を念頭に置きながら、陸軍の増強を行おうとしたのを、海軍と政党勢力と世論が妨げた、という図式です。
しかし、同じく私見では、海軍は組織エゴが行動原理でしたし、政党勢力も、犬養は本来、島津斉彬コンセンサス信奉者です(コラム#省略)から、政党政治家達全体の利益のために、いわば、反島津斉彬コンセンサス信奉者達たる政党人達と野合したわけであって、第二次憲政擁護運動、そして、普通選挙導入を経て、世論は、次第に、(財界への不信と相俟って)政党勢力に対する不信の念を募らせていくことになるのです。
もとより、これには、この間の、民間における、島津斉彬コンセンサスの別動隊たる、アジア主義者達の広報宣伝活動による世論の啓発も大きかったと思われます。(太田)
(続く)