太田述正コラム#10441(2019.3.19)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その20)>(2019.6.6公開)
第十五章 暗殺による統治(1932年」)
「・・・1932年・・・2月9日、火曜日の午後、裕仁は、自分の図書館での勉強に、もっとも “異例” な講師を招いた。それは、退役した坂西利八郎<(注24)>中将だった。
(注24)1871~1950年。「日本陸軍きっての支那通として知られた。・・・砲兵大尉の長男として生まれる。」幼年学校、陸士、陸大。「袁世凱顧問・・・参謀本部付(北京駐在)・・・黎元洪大総統顧問・・・北京政府応聘」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E8%A5%BF%E5%88%A9%E5%85%AB%E9%83%8E
⇒時勢に鑑み、昭和天皇が坂西の話を聞こうと思ったのは不思議ではありません。(太田)
坂西は長い間、中国での日本の諜報網を動かしてきており、血盟団の指導者、教導師井上<日召(注25)(コラム#9902、10042、10437)>の直属の上司だった。日本の民間スパイ機関の隠れた指導職にあって、坂西はいま、大洗の常陽明治記念館の蜘蛛の田中の、おそらく誰も知らない、補佐する位置にいた。・・・」
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_15_1.htm
(注25)1885~1967年。「早稲田大学・東洋協会専門学校(現:拓殖大学)をそれぞれ中退。1909年 南満州鉄道入社。諜報活動等を行う。・・・1920年 帰国する。・・・1928年 田中光顕の援助で茨城県大洗町の日蓮宗寺院・立正護国堂の住職になる。その後、海軍の過激派藤井斉中尉や五・一五事件の首謀者の一人愛郷塾塾長橘孝三郎らと知り合い、暴力的改造以外に道はないと説得され同調、テロ活動を計画。・・・
1932年 ・・・血盟団事件を引き起こし、無期懲役。1940年 特赦を受けて出獄。1941年・・・近衛文麿邸に寄食した。これは日米交渉の進展によっては起こりえるテロを恐れた近衛が用心棒として雇っていたものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%97%A5%E5%8F%AC
⇒バーガミニは、このくだりは、戦前のNYタイムス東京特派員の本に拠っています
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_bibliography.htm#byas
が、坂西と井上それぞれのウィキペディアの記述だけからも、二人の間に密接な関係があった可能性はありますね。
だからといって、(引用しませんが、)天皇がこの時期に坂西に会っていたことをもって、天皇が、血盟団事件を指示した、という妄想に繋げたのには口あんぐりしながら拍手です。(太田)
「・・・不幸なことは、・・・荒木<貞夫>陸相・・・が、日本の真の使命はボルシェビキロシアへの北進にあると信じていたことであった。・・・
ロシアとの戦争は、日本にとって、もしせねばならないものなら、欧米諸国の連合軍に攻撃をしかけるよりもはるかに好ましいものだった。
<でも、>そう<することで、>荒木は、シベリアの広大な無用の緩衝地帯に、裕仁のサムライたちの情熱を膠着と消耗の果てに、埋葬してしまうかもしれな<いというのに・・>。・・・
<とまれ>、彼は<南進論の>皇位と見解を異にし<たわけであり>、大兄たちは、彼がどれほど忠誠であるのかを確認したがっていた。そこで・・・宮廷の内大臣事務所からやってきた大兄の木戸侯爵と、貴族院からやってきた大兄の近衛親王は、・・・北進派の指導者で、親しい友人として荒木の人柄について語るに足る小畑を、・・・2月19日<の>・・・侯爵の井上三郎大佐――大正天皇時の桂首相の息子――の瀟洒な別邸で・・・<の>カクテルパーティーに招待していたのだった。
荒木陸相は、今後四年間の軍事力増強計画に際し、国の団結に誠実に仕えるだろうと、小畑は自分の考えを表した。また、荒木は、ソビエトに対してその新たな力を使おうと望むだろうが、彼の見方が皇位と最終的に異なるように至った場合、大元帥陛下の意志にそうだろうとも述べ、〔そうした姿勢は〕第二の烏の小畑も同じだった。ロシアは日本の本来の敵であったが、もし裕仁をロシアに対するように説得できなかった場合、小畑と荒木はいさぎよく退任し、その終末戦争戦略を他のものに譲るだろうというものだった。・・・
裕仁の政治演出家たちは、こうした危険を認識しつつ、その夜、会合を解散するにあたり、そうであってもなお、北進派の荒木陸軍大臣の大衆受けの良さを幹にしてその超越的政府を樹立し、犬<養>首相に置き換えて彼を据えることを裕仁に推薦するよう決定した。・・・
⇒バーガミニは、荒木貞夫ら、いわゆる「皇道派」は北進論、それに対して、昭和天皇は南進論だった、と主張しているわけです。
前半は必ずしも間違っていないのですが、後半は妄想の極致といったところですね。(太田)
政友会<(注26)>はそれまでの一世代にわたり、帝国の軍事的拡大よりその経済的発展、中国との長期的協調、減税と円安、大声をあげても権力はふるわない諸政策をとってきていた。
(注26)「田中総裁[(1925~29年)]の頃から、在郷軍人会が田中の影響で政友会の支持団体に加わるなど「政友会の親軍化」がいわれるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E6%94%BF%E5%8F%8B%E4%BC%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E7%BE%A9%E4%B8%80 前掲([]内)
⇒政友会の評価に関しても、バーガミニのアバウトさが現れています。(太田)
また、日本のビジネス界は、そうした社会の動向に勇気づけられ、姿勢を正し、引き続く暗殺の脅威に屈することを拒絶した。・・・
翌2月20日、土曜日の朝、人々は投票を行い、予想されていた通り、犬<養>の政友会に301議席、反政友会に147議席をあたえた。大兄たちによる裕仁の御前内閣は、ただちに、うわさとあてこすりを流す工作を始め、国民の投票を無にし、犬<養>政府を転覆するよう画策した。・・・
⇒バーガミニは、五・一五事件も昭和天皇の差し金であることを匂わせていますが、困ったもんです。(太田)
(続く)