太田述正コラム#10445(2019.3.21)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その22)>(2019.6.8公開)

 <1932年>2月27日、土曜、連盟の<リットン>調査団が東京に到着する予定の2日前、新聞の朝刊各紙は、漏らされた一通の手紙――アメリカ国務長官のスティムソンから上院外交委員会議長のウィリアム・E・ボラー宛――について報じた<(注32)>。その手紙は日本に、平和の維持を意図する相互条約の骨組みのいかなる修正や破棄も、アメリカ合衆国をして、そのもとのいかなる義務からも解き放つものとなろう、と警告していた。つまり、もし日本が、中国の 「開放」 と 「領土保全」 を保障する9カ国条約に反するようなことがあれば、たとえ非難を避けえたとしても、アメリカは海軍力制限条約を越えて制限なく主力艦船を建造し、フィリピン、グアム、ハワイにおける同国の軍事的常備力を増強する、というものであった。・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_15_2.htm

 (注32)「<米>国務長官ヘンリー・ルイス・スティムソンは、満州においてフーバー<大統領>よりもっと断固たる立場をとろうとしていた。・・・1932年1月7日、彼は後に「スティムソン・ドクトリン」として知られる書簡を中国と日本に送った。ケロッグ条約侵犯をもたらすような一切の変更を認めない政策である。・・・
 <しかし、>外交的には日本は不戦条約の精神の堅持を主張し<、>軍事的には、日本は戦争を上海に拡大することによって、国際連盟とアメリカが示した平和的解決案を無視した。・・・
 挫折感から、スティムソンは、共和党の上院議員で上院外交関係委員会の委員長であり、強硬な孤立主義者ウイリアム・ボラーに・・・アメリカの立場を要約<した>・・・長い手紙を送<った。>」
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stimson/doctrine.htm

⇒杉山元は、まさにこの2月27日まで陸軍次官をしており、陸軍内のコンセンサスを踏まえ、自分が黒幕となって引き起こしたところの、満州事変の直接的な狙いである、日本による、満州と内蒙古の東部・・いわゆる満蒙・・の対ソ攻撃・抑止地域としての確保、は、米国や英国の、中国国民党政府側に立った軍事介入を引き起こす可能性があり、少なくとも国民党政府は両国から軍事支援を得られるであろうこと、そして、かかる軍事介入の可能性を信じ、軍事援助を見込んで、国民党政権が対日軍事行動に出て来るであろうこと、を、ほぼ確信することができ、ほくそ笑みつつ、、後事を(自分が引き上げてやったところの、)新次官の陸士・陸大同期の小磯國昭前軍務局長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD
に託して次官ポストを辞したに違いない、と私は思っています。
 対ソ攻撃か抑止かで口角泡を飛ばしてきた、陸軍内の横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達を、根こそぎ利用しつつ、アジア解放を対ソ抑止と同時に達成することを期す、(自分を始めとする)陸軍内の島津斉彬コンセンサス信奉者達を代表して自身で策定したところの、杉山構想が、その完遂に向けて着実なる前進を続けている、と。(太田)
 
  第十五章 暗殺による統治(1932年)

 特段引用すべき個所はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_15_3.htm

 「・・・<リットン>調査団が中国にいる間・・・裕仁の特務集団の陸軍側半分は、調査団一行が日本の満州侵略に最も良好な印象を得ていると見積もっていた。裕仁は、元ソ連大使を、関東軍司令官の本庄大将の下に付け、外交的な巧妙さを助言させた。それが、バーデン・バーデンの11人の選良の一人、渡久雄<(注33)>大佐で、彼は、陸軍参謀<本>部<欧米>課長の地位を解かれ、リットン調査団に対し先発隊として旅行し、何事が起ころうとも、それに必要な対処を工作する任を負っていた。

 (注33)1885~1939年。東京府立四中、陸士、陸大(優等)。駐米大使菅武官補佐官、駐米大使菅武官、<参謀本部欧米課長、>参謀本部第2部長、を歴任。中将昇任後、病で死去。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E4%B9%85%E9%9B%84

⇒渡久雄が太田コラム読者の大叔父であるということもあって、この箇所を引用しました。
 なお、「元ソ連大使」は意味不明です。(太田)
 
 渡は、11人の選良の中で、アメリカ問題の専門家だった。風采と魅力を備えた京都の貴族で、英語に長け、ワシントンの日本大使館で5年間を過ごし、欧米の東京駐在武官の誰とでも友人関係にあるとの評判を得ていた。英国の諜報員、F.S.G.ピゴットによれば、渡は、 「欧米思想の正直な信奉者で・・・・、誰からも尊敬されていた」。・・・
 <当時、>予備役にあった河本大作大佐――バーデン・バーデンの選良の一人で、1928年の張作霖暗殺の実行者であり、<既に予備役になっていた>1931年の三月事件中止の際には最終金銭交渉〔仲介と解決金〕にあたった・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_40_15_4.htm#inakaryokan

⇒バーガミニの指摘が事実だとすれば、杉山元(当時陸軍次官)を黒幕として企まれたと私が見ているところの、三月事件の際の後始末に果たした極めて機微にわたる重要な役割からして、河本大作は、杉山の忠実な手駒の一人だった、と考えてよさそうですね。
 同じ島津斉彬コンセンサス信奉者だというのに、(田中義一同様)蒋介石、張作霖を評価していた「松井石根陸軍大将<が>・・・最後まで<張作霖爆殺事件の>首謀者である河本の厳罰を要求し続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9
あたりは、松井が大先輩である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8D%92%E6%A5%AD%E7%94%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7
だけに、恐らく、杉山は心を痛めたことでしょうね。(太田)

(続く)