太田述正コラム#10465(2019.3.31)
<2019.3.30東京オフ会次第(その2)>(2019.6.18公開)
しかし、そんなはずはない、と、もう一度、精読することにした。
斉彬が、漏れたら致命的な話をそのままするハズがないわけだし、古い言葉遣いに辟易してつい読み飛ばしがちにならないようにしなきゃな、と、自分に言い聞かせつつ・・。
そうしたら、やっと、斉彬のスゴさが分かってきた。
というか、幕末以降の日本の近現代史が、斉彬が頭の中で描いていた青写真が展開したものである、ということが見えてきたのだ。
これに、ほんのちょっと、この本に盛り込まれていない、斉彬の言動を加えたものが、私の命名によるところの、島津斉彬コンセンサスとして、その後の、志ある、官民の人々に、その実現を目指しつつ受け継がれていったことによって、この展開がなされた、と。
それには、まず、徳川幕府を倒すところから始めなければならないわけだが、それは、実は、簡単なことだったのだ。
各藩の藩校のことを調べる過程で、どうしても、幕末における、各藩藩主の係累についての記述が目に入ってきたところ、薩摩藩の係累ネットワークが広範かつ密なものであることに驚いたことが、やがて、私を、そういう結論に導いたのだ。
先ほど述べたように、藩校教育の違いから、外様系と幕府系の間の安全保障感覚のズレが次第に拡大しつつあったところへ、外様系の雄たる薩摩藩を核心とする係累ネットワークが、九州のほぼ全土、四国の最有力藩(山内家)、中国地方の要衝(毛利家)、日本の中心たる京(天皇家/近衛家)、そして、中部の要衝(尾張徳川家)を抑える形になっていたところ、この最後は御三家の一つの尾張藩であって、いわば、幕府の重要な一角が幕府から離反したような形になっており、後は、外様系なのか、幕府系なのか、微妙だった水戸藩出身の徳川慶喜を将軍に就けることができれば、無血倒幕が成る、と斉彬は読んだわけだ。
面白いのは、この係累ネットワークは、斉彬のひいおじいさんの重豪、と、斉彬、のタッグによって、かなりの部分、偶然の作用で形成されたものであることだ。
重豪は、斉彬同様、天才的な人物であっただけではなく、当時としては大変な長命・・89歳没・・で、しかも、精力絶倫・・69歳の時に最後の子を儲けている・・であり、多数のできのよい子供達を残し、彼らや彼女らを養嫡子として、あるいは正妻として、将軍家や九州を中心とする諸大名家に送り込み、このうち出来が悪くて男子で廃嫡になったのは(私が気付いた範囲でだが、)1名しかいなかったのではないか。
これらの大叔父や大叔母達、とりわけ、重豪の晩年に生まれた彼らや彼女らは、重豪が斉彬を溺愛し、斉彬は重豪に育てられたも同然であったことから、斉彬と兄弟のような意識を抱いており、成人後の斉彬を積極的に支援した。
これに加えて、斉彬自身の、妹や母方の従兄弟が、他藩で、薩摩藩との関係で重要な役割を果たした。
(皆さんも同意見ではないかと思うが、兄弟姉妹は、跡目相続や遺産相続があるので仲が悪くなることも少なくないが、そういうことがない、大叔父、大叔母や、叔父、叔母、や、従兄弟、との関係は、生涯、良好であり続けるのが普通だ。)
だからこそ、斉彬は死んでしまったけれど、西郷や大久保程度の人物達でも、彼らが軸となった倒幕を・・そうは言っても、それなりの紆余曲折はあったけれど・・行えたのだ。
この西郷や大久保評は、私の見解ではなく斉彬の見解であって、『島津斉彬言行録』に出て来るのだが、薩摩藩は藩主(斉彬)は大変な名君だが、藩士には人がいない、という当時の他の諸藩の見方を斉彬は否定していない。
(続く)