太田述正コラム#831(2005.8.22)
<原爆投下と終戦(追補)(その2)>
(コラム#828を「(注12-2)」を挿入する等拡充してHPとブログに再掲載してあります。)
<参考:戦略爆撃について>
ここで、戦略爆撃について、概念整理をしておきましょう。
a:全般
戦略爆撃(Strategic bombing)とは、総力戦において、交戦相手の戦争遂行基盤(広義の経済力)を破壊することを目的として、空から行われる組織的攻撃のことです。
戦略爆撃と戦術爆撃(Tactical bombing)との違いは、前者が戦争遂行基盤たる工場・鉄道・石油精製施設等に対する攻撃(、すなわちこれら施設等が多く所在する都市を主たる対象とする攻撃)であるのに対し、後者が軍事力、すなわち部隊集積地・指揮統制施設・飛行場・弾薬庫等、に対して行われるところにあります。
また、戦略爆撃の方法としては、絨毯爆撃(carpet bombing)と照準爆撃(precision bombing)があります。(方法に過ぎないのだから、戦術爆撃たる絨毯爆撃もありうる。)戦略爆撃としての絨毯爆撃の究極形態が広島と長崎に対して行われた原爆投下です。また、最近では核兵器による照準爆撃や戦術爆撃が可能になったとされています。
一般には、戦略爆撃と言う場合、在来兵器によるもの、就中絨毯爆撃によるものを指すことが多いと言えます。
私は、戦略爆撃という言葉を、もっぱらこの狭義の意味で用いています。
先の大戦後は、狭義の意味での戦略爆撃(以下、「戦略爆撃」という)は行われなくなりました。
それは、効果があまりない(注1)だけでなく、一般住民が巻き添えになるという人道上の問題があるためです。特に最近では、精密誘導兵器(precision quided munition)の発達によって、人道上の問題を回避しつつ効果的に照準爆撃ができなくなったことから、戦略爆撃の必要性は全くなくなったと言って良いでしょう。
(注1)先進国同士の戦争が殆どなくなったことも挙げなければならない、ベトナム戦争当時の北ベトナムのような発展途上国相手では、そもそも戦略爆撃の対象とすべき戦争遂行基盤としてめぼしいものが少ない。
b:歴史
以前、空軍(エアーパワー)の創始者達についてご紹介したことがあり、その中で戦略爆撃についても触れているので、関心のある方は、そちら(コラム#520?523、527)もご覧下さい。
さて、戦略爆撃の歴史は、第一次世界大戦の時にドイツが飛行船や爆撃機で英国の都市盲爆を行った時から始まります。他方、英国は当時、都市盲爆は行っていません。
最初の戦略爆撃は、スペイン内戦でのナチス・ドイツ軍による1937年4月のゲルニカ爆撃であるとされています。
先の大戦が始まる直前まで英国が対ナチスドイツ宥和政策をとったのは、英国が、例えば、ドイツとの間で戦争が起きると最初の3週間で英国の家の35%が爆撃による被害を受ける、という英内閣による1938年の試算等、戦略爆撃の効果を過大視していたためだ、という説があります。
いよいよ先の大戦が始まると、枢軸側のドイツは爆撃機や戦争末期にはV1(巡航ミサイル)やV2(弾道ミサイル)によって英国に戦略爆撃を行いましたが、連合国側の英米がドイツに行った戦略爆撃や米国が戦争末期に日本に対して行った戦略爆撃の方が桁違いに大規模でした。
(以上、http://en.wikipedia.org/wiki/Strategic_bombing及びhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E7%95%A5%E7%88%86%E6%92%83(どちらも8月21日アクセス)による。)
ちなみに、日支事変時代を含め、日本が支那の都市に対して行った爆撃でまともなものは、1938年2月?43年8月の長期にわたったところの国民党政府の臨時首都重慶に対する爆撃くらいです。しかし、これは戦略爆撃と言えるかどうか微妙ですし、少なくとも東京大空襲や原爆投下とは違って一般住民の殺戮を主たる目的とするものでなかったことは確かです(http://www.janjan.jp/living/0507/0507039093/1.php、http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2004/0406/hi-se.html、http://www.warbirds.jp/ansq/6/F2000089.html(いずれも8月21日アクセス)(注2)。
(注2)1940年後半におこなわれた重慶爆撃が絨毯爆撃であったことに疑問の余地はない。しかしそれは、重慶爆撃の目的が戦争遂行基盤の破壊と言うよりは、首都所在の(最高指揮統制施設を含む)軍事力を壊滅させ、もって国民党政府の継戦意欲をくじくことであったところ、市街地の中にも多数の対空砲(軍事力)が設置されており、空襲を安全に継続するためにもこれをつぶす必要があったためだ。
c:ドイツへの戦略爆撃
戦後、ドイツに対する米国戦略爆撃調査団(the United States strategic bombing survey)を率いたのは、後に著書「豊かな社会」等で有名になったガルブレイス(James K. Galbraith)でした。
この調査団の結論は、ドイツに対する戦略爆撃の効果はあまりなかった、というものでした。
すなわち調査団は、ドイツの軍用機や弾薬類の生産は1943年、1944年を通じて伸び続け、それが減少に転じたのは、ドイツ敗戦のわずか数ヶ月前からであり、これはドイツが生産機械や工場の疎開(分散配置)を行ったり、民需工場を軍需工場に転換したり、代替品を用いたりして対処したからだ、と指摘したのです。
なお、調査団の指摘ではありませんが、もっぱら一般住民の殺戮を目的としたものだという論議が絶えない、ハンブルグやドレスデンに対するものを含め、戦略爆撃が、ドイツ国民の継戦意欲を削ぐことにはつながらなかったことも明らかになっています。
(以上、http://www.guardian.co.uk/usa/story/0,12271,1261747,00.html、及びhttp://www.texasobserver.org/showArticle.asp?ArticleFileName=990514_jg.htmによる。このような指摘に対する反論については、http://yarchive.net/mil/strategic_bombing.html参照(典拠はいずれも8月21日アクセス)。)
d:日本への戦略爆撃
ドイツに対する爆撃で投下された爆弾は136万トンで、日本に対する爆撃で投下された爆弾(当然核爆弾は除く)は16万8,000トンの9倍でしたが、与えた損害はほぼ同じくらいでした。
これは、日本の目標がドイツに比べて脆弱であり、しかも集中していたためです。
しかし、日本に対する米国戦略爆撃調査団は、日本本土周辺意外の制海・制空権が連合国に移った1944年半ば以降、日本のあらゆる生産力は減少の一途をたどったけれど、その原因は空襲ではなく、制海権の喪失と船舶不足、1945年に入ってからは本土周辺海域の機雷封鎖による原料輸入の途絶が原因である、としており、日本の軍需産業を破壊したのも、国民の継戦意欲を削いで日本を終戦に追い込んだのも、(東京大空襲等、もっぱら一般住民の虐殺を目的とした戦略爆撃が行われたにもかかわらず、)空襲ではなかったことを示唆しています。
(以上、http://www.soshisha.com/book_read/htm/0610.html(8月21日アクセス)による。)