太田述正コラム#10473(2019.4.4)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その3)/2019.3.30東京オフ会次第(続)(その2)>(2019.6.22公開)

 丸山眞男によれば、日本において「近代」を特徴づける中核的学問領域を「(数学的)物理学」とみなし、これを旧体制における正統的学問である「倫理学」と対極に位置付けたのは、福沢諭吉でありました。
 これが丸山のいう「福沢に於ける「実学」の転向」(1947年)であります(『丸山眞男集』第三巻、岩波書店、1995年所収)。
 これは、まさにバジョットが『自然学と政治学』において打ち出した命題と基本的に同一であります。
 福沢は『自然学と政治学』を深く読みこんでいたのかもしれません。

⇒このくだりですが、「福沢に於ける「実学」の転向」そのものについては、いずれ、その論文が収録されたところの、丸山の『福沢諭吉の哲学』(1995年)のシリーズを書くので、その時に譲りますが、この本が上梓された時点で、丸山はまだ存命(~1996年)である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7
以上、丸山が批判されるべきは、自分の名前は旧字体のままにとどめつつ、福澤には新字体である「福沢」を用いた(「福沢」に改変させた?)上、「於ける」などという、旧字体ならぬ、旧表記法を用いた・・「おける」にすべきなのにしなかった・・という一貫性のなさです。
 これは、丸山が学者であって、記述において、厳密性、一貫性に配意しなければならない立場であった以上、決して些末な問題である、とは、私は思いません。
 そして、三谷が批判されるべきは、例えば、バジョットの考えは、バジョット自身の言(の翻訳)でもって紹介しているというのに、福澤の考えは、福澤自身の言ではなく、丸山によるその紹介の紹介でもってお茶を濁していることです。
 ここから、三谷に限ったことではありませんが、東大法学部政治学科出身の丸山の後輩政治学者達の多くに共通するところの、丸山に対する、無条件の敬意、というか、畏怖の念、が感じ取られるのであって、丸山が無謬ではないことが既に明らかである(典拠省略)こともあり、甚だ違和感を覚えた次第です。(太田)

(続く)
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       –2019.3.30東京オフ会次第(続)(その2)–

2 質疑応答(続)

A:太田さんなら、日本人を数百万人殺すことになる杉山構想を発動していたか?
O:日本人以外は、もっと殺すことになるわけだが、私なら発動できない。
 いや、私に限らず、誰も発動できないだろう。
 しかし、時代を考えなければならない。
D:第二次世界大戦中だけで、ソ連は自国民を何千万も殺したし、ドイツだって日本人より多くのドイツ人を殺した。
O:その前に、第一次世界大戦が、欧州では何千万人も殺している。
 その惨状を、杉山自身、視察した北アフリカ戦線からだが、目撃していた。
 なお、杉山は、自分の構想を発動したら、日本の兵士だけではなく、一般市民も多数殺すことになるであろうことも、完全に予見していただろう。
 彼は、帝国陸軍きっての航空通だったのだから、将来戦における空襲の惨禍を百も承知していたはずだからだ。
A:仮に杉山がいなかったらどうなっていたと思うか。
O:別の者が杉山の役を引き受けていただけのことだろう。
E:軍隊では、トップまで行く者も、中央と部隊とを行き来するものなのだな。
O:そうだ。
 だから、杉山が、軍務局長から、直で次官に昇格したのだって、それまでは、結構、珍しいことだったのではないか。
D:今や、島津斉彬コンセンサスは完遂されたと言ってよいのか。
O:いまだにアジア復興はなっていない、ということは前から申し上げているが、それ以外に、最初から手抜きされ、そのまま、現在に至っているのが、日本研究と支那研究だ。
 どちらの研究が不十分でも、日本文明と支那文明が密接な関係があることから、日本研究と支那研究両方が発育不全になってしまいかねないところ、どちらの研究も不十分なまま推移してきているのだから深刻だ。
 杉山構想が、戦後3分の2世紀も経っても突き止められなかった最大の原因はそこにあると思う。
D:どうしてそんなことになったのか。
O:維新の元勲達が、維新後の教育研究制度の立ち上げを、軽易な仕事と考えたのだろう、山内容堂、次いで、松平春嶽、という必ずしも有能とは言い難い殿様上がりに委ねたことだ。
 その結果、高等教育研究に関して、徳川幕府のインフラを用いたことまではよしとしても、中身、というか教育研究の翻訳/文献解釈的「姿勢」や(武士ならぬ)行政官養成「目的」、まで、徳川幕府のそれをそのまま継承してしまった。
 そして、その際、支那研究が欧米研究に単に差し変えられてしまった。
 また、昌平黌等では日本研究は行われなかったわけだが、ないままにされた。
E:今上天皇の先般のお言葉を太田さんのように受け止めた人は他にいないな。
O:そもそも、昭和天皇も今上天皇も自衛隊の部隊を(公式)訪問したことがないというのは、大事(おおごと)なのに、自衛隊の高級幹部OBの中からさえ、誰一人そのことを問題提起する人が現れてこなかったことが残念でならない。
C:自衛隊は募集難で、近い将来、傭兵部隊の導入が必至ではないかと思うが、自衛隊の武器はせめて、基本的に全て国産にすべきではないのか。
O:自衛隊そのものが、宗主国たる米国への見せ金なのだから、どうせなら、武器だって、全て、ゴマ擦りで米国のものを買ってさしあげる、ということの方が、ある意味、一貫性があるとも言える。
 
(完)