太田述正コラム#10479(2019.4.7)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その25)>(2019.6.25公開)
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<太田>
「ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む」シリーズが未完であることを思い出したので、三谷本シリーズと並行して、再開し、配信することにしました。
既に一番「おいしい」部分は紹介できたという気がしているので、再開しない、という選択肢もないわけではないのですが・・。
なお、「映画評論54:アリー/スター誕生」シリーズは、最初の部分を配信済み(コラム#10279)ですが、今後、再開しない可能性が大です。
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第十七章 北進か南進か(1933-1934)
・・・1933年2月22日、日曜日、著名なアイルランド生まれ英国人劇作家、ジョージ・バーナード・ショウ<(ショー)(注35)(コラム#1467、2365、2519、2844、2846、4909、5112、5253)>(77歳)が、連盟と熱河省間の危機の真っ只中、東洋に到着した。
(注35)1856~1950年。「一族は元はスコットランド貴族で、17世紀にアイルランドへ移住して来たピューリタンの家柄・・・大学などの高等教育を受けなかった・・・1925年にノーベル文学賞を受賞・・・
後に労働党・・・の前身となるフェビアン協会の会員として行動した。・・・
芸術家として、またリベラリストとして自由主義や民主主義を基本的に肯定したが、その欠点である衆愚政治や退廃に無批判ではなく、ファシズムやソ連型社会主義など独裁制や全体主義に理解を示す発言を行う場合もあった。人間社会に対する厭世主義から「無価値な人間の処分」をしばしば唱え、その観点から人種主義や優生学も肯定していた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC
⇒上掲ウィキペディアは、ショウを「アイルランド人」としていますが、バーガミニが正しいのであって、「アイルランド生まれ英国人」・・「アイルランド生まれのイギリス人」でもない!・・でなければなりません。(太田)
北京においての最初の記者会見で、彼は語った。 「もし、満州の3千万中国人のすべてがアイルランド人のように愛国者となるならば、満州問題は解決するだろう」。そう中国人の憂国心に問いかけつつ、次に、日本人に言った。 「日本兵は、あらゆる中国居住民に銃を突きつけているが、愛国心を抑えようとすることは馬の頭に座るようなものだ。ただ危なっかしいだけで何もできない」。
その一週間後、ショーは日本に到着した。・・・二日後、熱河作戦について、彼はこう述べた。
「ヨーロッパでの戦争は帝国主義的なもので、三つの帝国を滅亡させた。自分たちの帝国主義が、共和制〔の出現〕<で>終わ<ったところ>、<この三つの帝国>の支配者たちが欲してい<た>ことはそんなことでは全くな<かった>ということを・・・日本人は・・・考えたことがあるのだろうか。・・・」。そして彼は、日本が産児制限を採用することを要望して付け加えた。 「どうして日本は、拡張政策を維持す<るのか>、そして、より低い文明の流入を嫌う他の国を倒す権利をなぜ主張するのか、・・・その理由がない。」
一週間にわたり、ショウは、 「日本人が誇りとする近代都市のおぞましさ」 や 「戦争、愛国心、そして国際連盟の無益」 を徹底してこきおろし、日本の幻想を丸裸にした。
⇒ショウは、英国人ですが、米国を形作った英国人の一つの理念型的な人物であって、同時代の米国で言えば、リベラルキリスト教徒、といったところでしょう。
彼の、上掲の言は、ローズベルト米大統領の当時の極東観と基本的に同じものである、と見ていいと思います。
アングロサクソン文明の欧州文明に対する優位については同意ですが、彼の、支那文明の日本文明に対する優位なる思い込み、人種主義に由来すると思われる日本に対する上から目線、には辟易しますし、いくら文学者であるとはいえ、土地勘の全くない分野で臆面もなく思い付きをしゃべり続ける姿勢にも呆れます。(太田)
北進論<者の>・・・荒木<貞夫>陸相は、193<3>年に<、南進論者の>裕仁が対露戦に取り組むように画策する政治的大芝居を周到に準備して、一世一代の大博打に出た。
5月24日、水曜日、荒木は、学習院で開かれたマルクス主義者の研究会で、皇族が魔法にかけられているとして、・・・<彼が、それまで行ってきたところの、>赤宣伝を拡大した・・・
⇒ネット上では、5月ならぬ、「七月一日 午後二時より<学習院>正堂に於て陸軍大臣荒木貞夫閣下の講演あり」
https://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2014-12-13
との記述しか見つけられませんでした。(太田)
5月26日、金曜日、荒木陸相は文部大臣に促して、京都大学に、近衛の顧問団で、天皇機関説に立つ7人の内、主席教授の休職を命じさせた<(注36)>。・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_17_1.htm
(注36)滝川事件のことらしい。↓
「事件は、京都帝国大学法学部の瀧川幸辰教授が、1932年10月中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発するが、この時点では宮本英雄法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。ところが1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こり状況は一変することになった。この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張し、司法試験委員であった瀧川を非難した。
1933年4月、内務省は瀧川の著書『刑法講義』および『刑法読本』に対し、その中の内乱罪や姦通罪に関する見解などを理由として出版法第19条により発売禁止処分を下した。翌5月には齋藤内閣の鳩山一郎文相が小西重直京大総長に瀧川の罷免を要求した。京大法学部教授会および小西総長は文相の要求を拒絶したが、同月25日に文官高等分限委員会に休職に付する件を諮問し、その決定に基づいて翌26日、文部省は文官分限令により瀧川の休職処分を強行した。
瀧川の休職処分と同時に、京大法学部は教授31名から副手に至る全教官が辞表を提出して抗議の意思を示したが、大学当局および他学部は法学部教授会の立場を支持しなかった。小西総長は辞職に追い込まれ、7月に後任の松井元興総長が就任したことから事件は急速に終息に向かうこととなった。すなわち松井総長は、辞表を提出した教官のうち瀧川および佐々木惣一(のちに立命館大学学長)、宮本英雄、森口繁治、末川博(のちに立命館名誉総長)、宮本英脩の6教授のみを免官としてそれ以外の辞表を却下し、さらに鳩山文相との間で「瀧川の処分は非常特別のものであり、教授の進退は文部省に対する総長の具状によるものとする」という「解決案」を提示した。この結果法学部教官は、解決案により要求が達成されたとして辞表を撤回した中島玉吉、末広重雄、牧健二などの残留組と、辞表を撤回せず解決案を拒否した辞職組に分裂し、前記6教授以外に恒藤恭および田村徳治の教授2名、大隅健一郎、大岩誠ら助教授5名、加古祐二郎ら専任講師以下8名が辞職という形で事件は決着した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⇒滝川事件に帝国陸軍が注文を付けた形跡は、少しネットに当たった限りではありません。
また、そもそも、滝川はマルクス・レーニン主義的言説を行ったわけではない(上掲)ことから、滝川事件を赤狩りや北進論の文脈で取り上げること自体、ズレていると言わざるをえません。
更に、天皇機関説問題が起きるのは1935年2月のこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ですから、滝川事件と天皇機関説とは、何の関係もありません。
(天皇機関説は、憲法解釈に係る学説ですから、憲法学者の佐々木惣一はともかく、刑法学者の滝川等、憲法学者以外の面々は、そもそも、天皇機関説とは無縁です。)
バーガミニのこのあたりは、とりわけ無茶苦茶です。(太田)
(続く)