太田述正コラム#10483(2019.4.9)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その27)>(2019.6.27公開)
第十八章 機関か神か (1934-1935)
・・・北進派と南進派という名は、それまで戦略家や官僚の上層部のみで用いられてきたが、それも変わり始めた。北進派は、天皇の支持がないにもかかわらず 「皇道派」 と称され、また南進派は、天皇がその導きの灯明となって、 「統制派」 ――天皇による統制との意味――と呼ばれた。・・・
⇒このくだりには、「大谷敬二郎<(注41)>(おおたに けいじろう) 『落日の序章―昭和陸軍史』、東京、八雲書店、1959年。」という典拠が付されています。
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_02_bibliography.htm#ohtani
(注41)1897~1976年。陸士、東大法。大佐昇任後、東京憲兵隊長の時に吉田茂を逮捕。最終ポストは東部憲兵隊司令官。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%95%AC%E4%BA%8C%E9%83%8E
北進派、南進派の部分も大谷に拠っているように読めるのですが、一次史料にあたっていない私でも、皇道派と統制派を、それぞれ、対ソ早期開戦派と対ソ抑止派である、と以前指摘することができていた(コラム#省略)ことからしても、その部分がバーガミニの独創なのか、それとも、大谷本の援用に過ぎないのか、詮索する程の意味はなさそうです。(太田)
<ちなみに、>海軍内の北進派<が>艦隊派<(注42)だった>・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_18_1.htm
⇒艦隊派は、反ロンドン海軍軍縮条約派であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%A6%E9%9A%8A%E6%B4%BE
北進、南進とは関係がない、というか、北進派は「陸」に最大の敵を見出したのに対し、帝国海軍は、省を挙げて、「海」の彼方に敵を見出したところの、南進派だった(典拠省略)のですから、このくだりは、バーガミニの完全な誤りです。(太田)
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[改めて、皇道派と統制派について]
明治維新以降、帝国陸軍(や帝国海軍)、ひいては日本政府、は、対英配慮上、島津斉彬コンセンサスについて公然と語ることは許されなかったが、横井小楠コンセンサスについてはそれが許された、と、私は指摘してきたところ、以下、第一次世界大戦後の話だが、対ソ(露)抑止論そのものについて語ることは許されたとはいえ、対ソ(露)開戦論を公然と語ることはさすがに憚られたはずだ。
他方、帝国陸軍部内では、秘匿された形で、対ソ(露)開戦論ないし北進論が、対ソ(露)抑止論と対置される形で議論されることは、当然あったはずだ。
その場合、対ソ(露)抑止論者の中に、容共連ソの中国国民党政権を打倒するか無害化することで対ソ(露)抑止を盤石たらしめる、という意味での(北進論に対置される)南進論を唱える者もいたはずだ。
この場合の南進論には、東南アジアや南アジアに「進出する」含意はなかったと考えられる。
ちなみに、対ソ(露)開戦論者達の主張は、ソ連の経済成長が日本を上回るペースで持続するに至ったことから、日ソ間において国力に大きな差が付く前のできるだけ早期に機会を捉えて対ソ開戦をすべきだというものであっただろうし、これに対するところの、対ソ抑止論者達の主張は、指令経済における高度成長は、量的成長が質的成長に転換を余儀なくされる時点で続かなくなるはずだから、抑止を続けておればよい、といったものであったことだろう。
但し、抑止を続けているだけでは、支那が容共・連ソの中国国民党政権によって統一され、関東軍が南北から挟撃される状態になりかねないので、中国国民党を打倒するか、中国国民党勢力と関東軍・・後には満州国・・との間に十分な緩衝地帯を確保することによってその無害化を図る必要がある、という主張が、対ソ(露)抑止論者達の間で次第に高まっていったと考えられる。
それに対し、対ソ(露)開戦論者達は、そんなことをすれば、米英が黙っておらず、国民党政権に対して経済的軍事的支援を行うのみならず、日本に対して経済制裁を加えてくる可能性が高く、日本は、ソ・米・英・国民党政権によって包囲されてしまうことは必至だ、というものであったことだろう。
以上は、島津斉彬コンセンサス信奉者達に関しては、同コンセンサス中の横井小楠コンセンサス部分の実施を巡る議論であったし、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達に関しては、同コンセンサス(のみ)の実施を巡る議論であったはずであり、島津斉彬コンセンサス信奉者達と横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達の間の議論、というわけでは必ずしもなかったはずであることに注意が必要だ。
(島津斉彬コンセンサス信奉者達の中の対ソ(露)開戦論者達は、ソ連(ロシア)の脅威を解消した後、アジア解放にとりかかる、という考えだったはずだ。)
その上で、皇道派なるものは、対ソ(露)開戦論者達の自称であったのに対し、統制派なるものは、第三者が、対ソ(露)抑止論者達に付けたニックネームだった、というのが私の見方だ。
なお、私見では、以上のような対峙構造を利用し、いわば乗っ取ったのが、島津斉彬コンセンサス信奉者達中の杉山構想賛同者達なのだ。
彼らが、どのようにそれを成功させたかは、もはや、説明を要しないだろう。
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紹介すべき個所はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_18_2.htm
第十九章 1935年の粛清
紹介すべき個所はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_19_1.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_50_19_2.htm
(続く)