太田述正コラム#10645(2019.6.29)
<皆さんとディスカッション(続x4118)/G・B・サンソムの日本史観と戦後日本(その1)>

<太田>(ツイッターより)

 「世の中がまるで「旧韓末」(大韓帝国期)のようだと言われる。…
 文大統領は高宗と同じ道を歩むのか…」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/06/28/2019062880151.html
 前段は私がずっと前から指摘してきたことだ。
 朝鮮日報は、文在寅になってからじゃなく、少なくとも、保守の李明博の時からそう指摘してくるべきだった。もはや遅過ぎさ。

<太田>

 関連記事だ。

 朝鮮日報、そんなことより、それよりずっと根底にあるものに、早く気が付かなくっちゃー。↓

 「G20大阪:8カ月ぶり日中首脳会談、キーワードは「永遠の隣国」–安倍首相「来年の桜の咲くころ、お迎えしたい」–習近平主席「いいアイデア」・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/06/28/2019062880003.html

 ひがみまくっとるね。↓

 「G20大阪:「米日印」対「中ロ」、韓国はどちらにも入れず–
 大阪で主要20カ国・地域(G20)首脳会議が開幕した28日、米国のトランプ大統領と日本の安倍首相、インドのモディ首相が3者会議を行い、インド太平洋地域における3カ国の協力関係を進めることで一致した。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/06/29/2019062980001.html
 「G20大阪:ぎこちない対面、日本の「おもてなし」は韓国には例外・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/06/29/2019062980010.html
 「韓日首脳が8秒間握手した日、韓国の「日本企業就職フェア」は大盛況・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/06/29/2019062980012.html

<豊丘時竹>(2019.6.28)http://toyotoki11.hatenablog.com/entry/2019/06/28/150045

 –宗主国トップの発言–

 ・・・保護国のトップでもない者が、宗主国サマトップの発言を否定などするな、と言っているのである。
URL;https://www.ohtan.net/blog/archives/13289

<太田>

 それでは、その他の記事の紹介です。

 ま、止めといた方が・・。↓

 「愛子さま、学習院内部進学が濃厚だが東大進学すすめる声も・・・
 学習院女子高等科では、毎年約3分の1の生徒が学習院以外の大学に進学し、なかには最難関・東京大学に進む生徒もいる(昨年度は学年で3人)。進学塾関係者によれば、「学習院女子でトップレベルの成績ならば、東大進学を狙えて、偏差値70~72ほど」というから、誰もがうらやむ頭脳の持ち主ということだろう。・・・」
https://blogos.com/article/387902/

 やっぱ、男性プロ棋士達とは絶望的な差だな。↓

 「里見女流王座、公式戦で対男性棋士4連勝の新記録 棋聖戦1次予選・・・
 里見は引き続きあった決勝で大橋貴洸(たかひろ)四段(26)に90手で敗れ、5連勝はならず、対男性棋士の公式戦の通算記録は15勝27敗となった。・・・」
https://mainichi.jp/articles/20190628/k00/00m/040/277000c#cxrecs_s

 日本フェチのBBCでも、「それよりずっと根底にあるものに、・・・気が付かな」いんで困っちゃうよ。↓

 Japan whaling: Commercial hunts to resume despite outcry・・・
 But even if Japan does defy the criticism and stick with whaling, there’s a good chance the contentious issue will gradually die down by itself.
Japanese demand for whale meat has long been on the decline and the industry is already being subsidised. Eventually, commercial whaling might be undone by simple arithmetic.
https://www.bbc.com/news/world-asia-48592682

 これも、本文が読めないー。↓

 Trump’s Ignorant Comments About Japan Were Bad Even for Him–
 His needlessly provocative remarks should take everyone’s breath away.・・・
https://www.nytimes.com/2019/06/28/opinion/trump-japan.html?action=click&module=Opinion&pgtype=Homepage

 だっからー、帝国陸軍と中国共産党は示し合わせて中国国民党政権に日支戦争を始めたって言ってるんだよ。↓

 「・・・盧溝橋事件をめぐり、日本の政府と軍部が混乱の極みにあったことはすでに書いた。一方、中国側はどうだったか。意外にも、中国共産党は事件勃発後、敏速かつ計画的に動いたようだ。
 盧溝橋で日中両軍が衝突した翌日の1937(昭和12)年7月8日、毛沢東は蒋介石に打電した。
 「蒋委員長の高覧を仰ぐ。日本侵略者は盧溝橋を進攻し、その武力による華北奪取という既定の段取りを実行に移した。(中略)願わくば全国総動員を実行して、北平(北京)・天津を防衛し、華北を防衛して失地を回復されんことを。紅軍将兵全員が委員長の指導のもとで、国家のために生命を捧げ、敵に対抗して、国土と国家を防衛する目的を達成せんことを希望している」
 即時開戦を呼びかける内容だ。中国共産党は同日、中国全土の新聞社、各団体、各軍隊に向けても打電した。
 「全国の同胞諸君! 北平・天津危うし、華北危うし、中華民族危うし、全国民族が抗戦を実行してのみ、われわれの活路がある! われわれに攻撃してくる日本軍に対しただちに断固たる反撃を加えるよう要求するとともに、新たな大事変に即応する準備をただちにすすめるよう要求する。(中略)全国の同胞・政府・軍隊は団結して民族統一戦線の堅固な長城を築きあげ日本侵略者の侵略に抵抗しよう! 国共(国民党と共産党)両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな攻撃に抵抗し、日本侵略者を中国から追い出そう!」
 繰り返すが、これら激烈な打電の日付は7月8日である。盧溝橋で最初の発砲があったのは7月7日午後10時半ごろ、日中両軍が戦闘に突入したのは翌8日午前5時ごろ、そのわずか数時間~十数時間後に中国全土へ向けて抗日戦線結成を呼びかけたのだから、まるで盧溝橋事件が起きるのを予期していたかのような手回しのよさだ・・・。」
https://special.sankei.com/f/society/article/20190629/0001.html

 ムム。↓

 「・・・日本人でオーガズムを経験したことのない女性は海外に比べて多い。これを「オーガズム障害」という。「感じることはできるが、いきにくかったり、いかないこと」だ。オーガズムは、子宮内膜症になりにくくなるとか、入眠作用がある・・・」
https://blogos.com/article/387549/

 かっちょいい。さよなら、メイさん。↓

 「ロシアのプーチン大統領とメイ英首相は28日、20カ国・地域首脳会議(G20サミット)に合わせて大阪市内で会談した。メイ氏はロシアが他国への干渉やサイバー攻撃といった「無責任かつ安定を脅かす行動」を改めない限り、英ロ関係の「正常化」はあり得ないと断じた。
 英首相報道官によると、メイ氏は2018年3月に英南部で起きた元ロシア軍情報員らに対する神経剤を使った暗殺未遂事件について「受け入れ難い行為」と強く非難。英国はロシアが関与した「動かぬ証拠」を持っていると述べ、容疑者に対する裁きを求めた。・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E3%80%8C%E5%AE%89%E5%AE%9A%E8%84%85%E3%81%8B%E3%81%99%E8%A1%8C%E5%8B%95%E6%94%B9%E3%82%81%E3%82%88%E3%80%8D%EF%BC%9D%E3%83%AD%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%AB%E8%8B%B1%E9%A6%96%E7%9B%B8/ar-AADyWqO?li=AA4RHB&ocid=spartanntp

 ”行政の反乱”はなぜないん?↓

 「韓国「教科書無断修正で官僚逮捕」 “司法の反乱”の可能性・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%80%8C%E6%95%99%E7%A7%91%E6%9B%B8%E7%84%A1%E6%96%AD%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E3%81%A7%E5%AE%98%E5%83%9A%E9%80%AE%E6%8D%95%E3%80%8D-%E2%80%9C%E5%8F%B8%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1%E2%80%9D%E3%81%AE%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7/ar-AADzMJh?li=BBfTvMA&ocid=spartanntp#page=2

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <人民網より。
 あんまし気合を込め過ぎない方がえーで。↓>
 「中日首脳会談で合意に達した10の共通認識とは?・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c94474-9592595.html
 「習近平国家主席が日本の安倍晋三首相と会談・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c94474-9592469.html
 「安倍首相が習近平国家主席に来春の日本国賓訪問を招請・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c94474-9592420.html
 「G20大阪サミット初日、メディアセンターのジャーナリストたち・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c94638-9592515.html
 <まだ、肩書がないのが、チョイ気になるな。↓>
 「程永華氏「中国の外交舞台が広がるほど、外交官の責任はより重大に」・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c94474-9592359.html
 <「本来」の、日中交流人士モノも花盛り。↓>
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c95952-9592461.html
 「木経惟「花」写真展が北京で7月より開催 過去最大規模・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c94476-9592669.html
 「中国と日本の人文交流イベントが大阪で相次ぎ開催・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c94638-9592621.html
 「「故宮の文房具」、日本の文具・紙製品展に初の出展・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c206603-9592456.html
 「2019年中日成人スポーツ交流(中国)が蘭州で開幕 甘粛省・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0627/c94638-9592083.html
 <いつまで「量産」を続けられるか、それが問題だ。↓>
 「ノーベル賞を「量産」する日本、その秘訣は?・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c95952-9592461.html
 <そんなに頼りにしないでよ。↓>
 「ソニー・MS・任天堂が米国の関税に共同で反対を表明・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2019/0628/c94476-9592663.html
 <ここからは、サーチナより。
 そうだったのか。↓>
 「・・・今日頭条・・・記事は、日本で多くの中国人が暮している地域と言えば、池袋駅の北口エリアや横浜中華街、そして、西川口が有名であると紹介し、今回は西川口になぜ中国人が多く生活するようになったのかを紹介。日本では「西川口は中国人に占領されてしまった」などの消極的な意見が多く聞かれるとしながらも、中国人からすれば「中国国内にいると錯覚してしまうほど」と伝えた。
 続けて、西川口で生活している中国人の多くは中国の東北地方の人が多く、そこで提供されている料理は羊肉の串焼きなどの東北料理が中心で、日本人の多くが中華料理と考えている麻婆豆腐やチンジャオロースなどではないと紹介。また、西川口で暮らす中国人の多くは留学で日本にやってきて、そのまま日本で就職した人が多いようだと紹介した。
 では、なぜ西川口で多くの中国人が生活するようになったのだろうか。記事は、西川口は東京に近い割に比較的家賃が安いという要因のほか、西川口にかつて風俗街があったことも要因の1つだと紹介。大摘発によって風俗店がどんどんなくなる一方で、日本企業は西川口に店を開きたがらなかったという経緯を紹介し、摘発後に閑散としてしまった西川口に積極的に店を開いたのが中国人だったのだと紹介した。
 続けて、西川口では中国人が多いことによって、夜でも大声で話したり、共用部に私物を放置すること、さらに、ゴミの処理方法などについて問題も起こっているが、異文化交流を企画することによって、徐々に日本人の理解を得ることが出来るようになってきていると主張。結論として記事は、日本人との交流で大切なことは「まず相手を理解する」ことで、同じものを食べ、同じ環境で生活し、偏見の目で見ないことだと強調した。」
http://news.searchina.net/id/1680181?page=1
 <アッハッハ。↓>
 「・・・今日頭条・・・記事は、日本旅行で寺や神社に参拝するのが外国人観光客にとって必須の行程の1つになっており、参拝を終えた後でみんな記念にお守りを買うのが好まれていると紹介した。
 そして、日本のお守りは恋愛や結婚、健康、厄除け、学業成就など多種多様であり、自らの願いをかなえるだけでなく、友人の幸福を祈ることもできると伝えた。その一方で「われわれは往々にしてお守りに関するタブーを軽視してしまっているのだ」として、4つのタブーについて言及している。
 まずは、お守りの中を絶対に開けないこと。中には護符が入っているが、一旦中身を空けてしまうと神様の力は消えてしまい、お守りの効果もなくなってしまうとした。そして、また何よりも、中を覗こうとする行為は神様へのリスペクトに欠けるものだと説明した。
 次に、一度に大量のお守りを買い過ぎないこととした。多くの観光客が次になかなか来られないだろうとすべての種類のお守りを買っていこうとするが、あらゆるお守りを買えばその効果が全部現れるとは限らず、願いが多すぎれば神様はどれを叶えたらいいか迷ってしまうのだと伝えている。
 さらに、自分の願いのために購入したお守りを、他人に渡して願い事をさせてはならないと説明。このようなお守りは効力を失い、ただの装飾品になってしまうとした。
 そして最後に、日本のお守りの有効期限は大体1年だが、1年が経ったからといって普通のゴミと同様に捨ててはいけないとした。これは神様に対する不敬に当たるため、日本に行く機会があるならばちゃんとお守りを購入した神社に返すべきだと説明した。また、日本に行く機会がない場合は日本の神社あてに郵送するか、塩を入れるなどお清めをしたうえで処分した方が良いと伝えた。」
http://news.searchina.net/id/1680184?page=1
 <だよねー。↓>
 「日本の動物園の訓練で登場した<着ぐるみの>ライオンさんがかわいくて笑ってしまう・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1680185?page=1
 <定番。↓>
 「・・・今日頭条は・・・日本を訪れた観光客が「この点は確かに日本にかなわない、敬服せざるを得ない」と感じる点として、道路工事の丁寧さを紹介する記事を掲載した。・・・」
http://news.searchina.net/id/1680205?page=1
 <間歇的定番。↓>
 「高い芸術性が見られる日本のマンホールの「蓋」、これはもはや文化・・・中国メディアの捜狐・・・」
http://news.searchina.net/id/1680187?page=1
 <盛り込まれた諸材料を含め定番。↓>
 「日本の電車に実際に乗ってみて感じたこと・・・中国メディア・東方網・・・」
http://news.searchina.net/id/1680192?page=1
 <テーマは定番だが、新材料の部分を中心に紹介しておこう。↓>
 「1度訪れたら10回は訪れたくなる日本、それは「細部にまであらゆる配慮があるから」・・・今日頭条・・・
 洋服を試着する際、女性の化粧や口紅で商品が汚れないようにするための「フェイスカバー」が用意してあったり、ガムの容器の中に噛み終ったガムを包んで捨てるための紙が入れられていて、非常に細かな点まで配慮が払われていると強調し、こうした「細部への配慮」はもはや中国人の想像を超えていると主張しつつ、中国が日本に追いつくまでには長い道のりを歩まなければならないと分析した。」
http://news.searchina.net/id/1680192?page=1
 <昔の名前で出ています的定番。↓>
 「日系車の安全性は証明されている! 「ボディの厚さ」で判断するのはナンセンス・・・今日頭条・・・」
http://news.searchina.net/id/1680204?page=1
 <意外に新しい話かも。↓>
 「・・・今日頭条は・・・日本のスーパーを視察して感じたことを紹介する記事を掲載した。
 記事の中国人筆者はまず、企業が成功するのは「偶然ではない」と指摘。筆者が視察したという日本のスーパーには多くの工夫が見られ、まず「輸送の段階から違う」そうだ。野菜や果物などの生鮮食品には「呼吸と水分」が必要なため、葉物の野菜は立てて輸送すると紹介した。
 また、「陳列にも美学があった」と紹介。客が見やすい高さに、美しく見えるように工夫した照明の色や配列で商品を陳列している。一年を通じて販売の多いトマトとバナナは、広めにとった売り場でさまざまな大きさや種類、価格帯を取り揃え、バナナとシリアルを一緒に置くなど関連商品を隣に配置することで、客が調理をイメージしやすくなり、客単価も上がると伝えた。
 さらに「商品棚」にもこだわりがあると紹介。オートメーション化された棚もあり、ソフトドリンクやタバコなど、自動で商品を充てんする陳列棚があるという。筆者は、少子高齢化の日本ならではの発想だと感心している。」
http://news.searchina.net/id/1680196?page=1
 <ガス抜きじゃないとして、後一歩だな。
 「性格や気質」じゃなく「文明」なんだよ。↓>
 「・・・今日頭条・・・記事は、1980年代の日本に比べ、現代の日本が衰退したのは明らかだと指摘し、かつての中国人は日本の給与水準の高さを羨んだものだが、「現在の日本の給与水準を羨む中国人はもはやいない」と指摘。続けて、日本という国の世界における競争力も低下を続けていると伝え、スイスのビジネススクールであるIMDが5月末に発表した世界競争力ランキングで、中国が14位となったのに対し、日本は前年の25位から30位に順位を落としたと紹介した。
 続けて、日本の競争力が低下していることは「決して意外なことではない」と伝え、他の様々な調査でも国力低下が明らかになっていると強調。こうした状況に対し、日本経済の低迷を外部環境から分析する見方は多いと指摘する一方、日本経済の低迷は「日本人の性格や気質と関係があるのではないか」と独自の見解を伝えた。
 さらに、日本人の内向的で排他的な性格が経済成長を阻害している可能性を指摘し、これは日本人が「留学しなくなった」ことからも見て取れると論じた。逆に、世界競争力ランキングで1位になったシンガポールは考え方や経験など、様々な点で国際化が進んでいることが判明していると伝えたほか、中国は「日本人が内向きになっている間に、外国との積極的な交流を通じて、急激な成長を遂げた」と言えると論じた。」
http://news.searchina.net/id/1680202?page=1
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 一人題名のない音楽会です。
 今回は、息抜き、ということで・・。
 (△は、例によって、動画のダウンロードができないものです。)

John Williams:Harry Potter Hedwig’s Theme 編曲・ピアノ:Patrik Pietschmann ←映画が懐かしい。
https://www.youtube.com/watch?v=jTPXwbDtIpA

Chopin:Fantasie Impromptu 編曲・ピアノ:Jacob Koller
https://www.youtube.com/watch?v=t4kVh9WFt2E

Ángel Villoldo:El Choclo ヴァイオリン:KATICA ILLÉNYI チェロ:ANIKÓ ILLÉNYI –  △ ←彼女、しかも妹さんと、久しぶりの登場です。
https://www.youtube.com/watch?v=Tzw8KIYRbBU

Nino Rota:Godfather Medley 編曲・ピアノ:Léiki Uëda
https://www.youtube.com/watch?v=6NDCRp1mONE

Anthony Hopkins:And The Waltz Goes On 
 トランペット:Gaál Szabolcs ←この曲、気に入っているので・・。
https://www.youtube.com/watch?v=J-gpOKUCXJo&list=RDJ-gpOKUCXJo&start_radio=1
ヴァイオリン:Lelie ピアノ:Tamilla Guliyeva ←同じく。
https://www.youtube.com/watch?v=rZMLYSLx7mQ

灰田有紀彦:鈴懸の径 クラリネット:鈴木章治 & 北村英治
https://www.youtube.com/watch?v=4-UoRLSrsHQ

余興:「愛のくらし(作曲:Tomy Children/Alfred Hause 作詞:加藤登紀子)」小特集
 テレサ・テンによるもの(コラム#3350)が、曲想に合っていて頭抜けていますが・・。

高田みづえ △
https://www.youtube.com/watch?v=f1TiQDPvsGE
森昌子 △ ←返す返すも、彼女の長いブランクが残念。で、お疲れ様でした。
https://www.youtube.com/watch?v=ljE-HxRUkas
香西かおり・秋元順子 ←秋元順子、うまいねー。
https://www.youtube.com/watch?v=T1YENcQw2Y0
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       –G・B・サンソムの日本史観と戦後日本(その1)–

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<目次>

1 始めに
 [古典ギリシャと古代支那の比較] 
 [古典ギリシャと古代支那のそれから]

2 本題
 (1)サンソム本からの引用
 [縄文時代の交易の商業性]
 (2)ギリシャ文明ならぬアテナイ文明
  ア 民主制の生誕
 [イギリス・スイス・フランスと民主制] 
  イ 古代科学の生誕
 [ギュムナシオン]
 [古代科学生誕の画期性と限界]
 [数学と古代科学・近代科学]
  ウ アテナイ文明は日本文明にこそ決定的な影響を与えた
 [支那の彫刻]

3 結論
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1 始めに

 Chaseさんから譲り受けた三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』の中で言及されていて、その存在を思い出し、関心を持ったところの、C.B.サンソムの『西欧世界と日本』(原著は英語)については、改めてシリーズで取り上げるつもりですが、そのシリーズの一部を先取りする形で、この本で開陳されているところの、サンソムの巨視的諸見解を、オフ会「講演」で何回かに分けて俎上に載せることにしました。
 今回、俎上に載せるのは、彼の、アジアの諸文明とヨーロッパ文明には、後者だけがギリシャ古典文明を継受していることから、根本的な違いがある、という巨視的見解です。
 本題に入る前に、このサンソムの見解について考える材料をネットで探している時に発見した、雨宮健(注1)スタンフォード大学名誉教授の論稿から、その一部を紹介するとともに私のコメントを付したものをご紹介しましょう。

 (注1)1935年~。ICU卒、米アメリカン大修士、ジョンズ・ホプキンス大博士(経済学)。スタンフォード大教授(下掲邦語論文執筆当時。現在は名誉教授)。計量経済学専攻。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E5%AE%AE%E5%81%A5

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[古典ギリシャと古代支那の比較] 

 「<古典>ギリシャを<アテナイ>によって代表させたのは、多くのポリスのうち<アテナイ>が他をはるかに超えて貨幣経済を発達させたということと、残存する当時の著作と出土文字資料の量においても他のポリスを凌駕するという事実による。・・・
 <アテナイ>には狭義と広義がある。狭義の<アテナイ>はアクロポリス(Acropolis)を中心 とする都市部であり政治、商業、歓楽の中枢であった。広義の<アテナイ>は別名アッティカ(Attica)といわれ、南東のラウレイオン(Laureion)銀鉱、北東のマラトン(Marathon)、北西の秘蹟で有名なエレウシス(Eleusis)を含む総面積2,500平方キ ロメートルの地域で、主として農地である。アクロポリスの南西5キロメートルに ありアテネの外国貿易の玄関口として栄えたペイライエウス(Peiraieus)港は狭義の<アテナイ>の一部とみなすこととする。当時の著作に描かれているとおり、多くの富裕層は都市部に住居を構え、しばしば遠隔の農地の管理に馬を駆って出かけたのである。以後、単に<アテナイ>という時はポリスとしての広義の<アテナイ>を指す。 これに対して戦国時代から前漢にかけての<支那>は、当時は揚子江以南はまだあまり発達していなかったから含めぬとして、総面積は約7,000,000 平方キロメートル であった。これは<アテナイ>の2,800 倍である。・・・
 <また、>前漢末の<支那>の人口は約 60,000,000人であり紀元前4世紀の<アテナイ>の人口は大雑把に見積もって約 150,000人であったから人口比は400倍になる(なお、この<支那>と<アテナイ>の人口数には奴隷は含まれていない。・・・<支那>における奴隷の数は多くなかったが、<アテナイ>においては人口の約1/3は奴隷であった(注2))。・・・

 (注2)「<支那>においては奴隷の全人口比は大きく見積もっても2%弱だが、<アテナイ>においてははるかに大きな比率を占めていた。<アテナイ>の・・・人口予測の平均によれば、奴隷の全人口比は前431年に0.22、紀元前4世紀半ばに0.38、前322年に0.42と次第に増加傾向にあった。」

 古代中国と古代<アテナイ>・・・において、ほぼ同時期に商工業と貨幣経済があたかも符牒を合わせた如く急速に発達したということ、また経済を論ずる思想家の理論も、いくつかの共通点と相異点を持ちつつも、両者ともにかなり高度な地点に達したということは、特筆に価すると思う。・・・
 中世ヨーロッパの例で明らかなとおり、都市の発達は商業の発達に密接な関係がある。・・・
 <アテナイ>は最も古い歴史を持つ1ポリスである。印欧語系の言語を話す原始ギリシャ人の第一波が今のギリシャ地方に侵入したのは前2000年頃といわれ、彼らは前1600年頃それまでエーゲ海周辺を支配していた非印欧語系の言語を用い、クレタ島のクノッソスに最大の拠点を持つミノア文明より優位に立つミケーネ文明を確立した。ミケーネ文明のもとに繁栄した小王国のうち主なものは、ミケーネ、・・・<アテナイ>等であった。この文明はその後400年余り続いた後、原因不明の理由(自然災害、第二波の侵入ギリシャ人であるドーリア人の侵入、その他の侵略等諸説あり)により衰退した。この間多くの小王国が消滅したり小アジアに移動したりしたが、<アテナイ>だけは小王国として存続し、後に姿を現すポリスとの連続性を保つことを得た・・・

⇒ミノア文明由来の都市の守護女神たるアテーナーを自分の都市名としたアテナイは、(アテナイに先を越されたので?)そうしなかったけれど、同様、アテーナーを守護神とした原始ギリシャ人の都市群の中で、自分達の都市だけが生き残ったことから、自分達が、アテーナーによって選ばれた民であるとの強烈な自負心を抱くようになり、アテーナーが知恵、芸術、工芸、戦略を司る女神であったことから、自分達の都市のアテナイを、「知恵、芸術、工芸、戦略」のメッカ、前衛たらしめようという自意識に支配されるようになった、という仮説を立ててみたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC (但し、事実関係のみ。)(太田)

 <他方、>春秋中期以後、『左伝』の中に数多く出現する諸国の「民会・・・<すなわち、>国の非常時に首都の一般市民が公の場所に集って国策を論議する集会・・・」は商工業者の勢力増大の結果である・・・。「民会」は戦国時代には衰退した。・・・

⇒以下にざっと目を通して欲しい。↓
 「殷代から春秋時代にかけての華北は、邑<(ゆう)>と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。・・・邑は、城壁に囲まれた都市部と、その周辺の耕作地からなる。そして、その外側には、未開発地帯が広がり、狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。彼らは「夷」などと呼ばれ、自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、略奪を行った。また、邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていた。こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。さらに春秋時代の争乱は、中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。大邑による小邑の併合や、鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともにそれまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って中央から役人が派遣されて統治を受ける「県」へと変えられていった。こうして、春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
 そして、「邲<(ひつ)>の戦い・・・は、紀元前597年・・・、邲(現在の中国河南省鄭州市)において晋と楚が激突した戦い。楚軍の大勝利に終わった」戦いだが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%84%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
「<以後、>大国同士が直接ぶつかりあうことが避けられ<るようになっ>た・・・
 <やがて、>晋では紀元前453年に智氏が魏・韓・趙の3氏の連合により滅ぼされる。智氏の旧領を分け取りにしたことでさらに力をつけた3氏はそれぞれ魏・韓・趙の国を建てた。この3つを合わせて三晋とも呼ぶ。その後、魏・韓・趙の三国は紀元前403年に周王室より正式に諸侯として認められた(もっとも、この段階では晋も小諸侯に没落した形で紀元前376年まで存続している)。この時点をもって春秋時代は終わり、戦国時代に入る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3
 さて、何が言いたいかというと、モンゴルのような遊牧民たる非定着民やゲルマン人のような半農半遊牧たる非定着的民は、往々にして、戦時の軍事司令官選出を「民主的」に行ったところ、古典ギリシャ人や漢人のような農民たる定着民においても、その政治や商工中枢たる都市において、民主制の萌芽が見られる場合がレアケースとしてあった、という点だ。
 その環境として、
一、周囲を野蛮に囲まれている、ユニークな文明世界に属している、という各都市の相互仲間意識、
二、各都市相互の関係の平等性、
三、各都市における遊牧民等が居住する辺境の消滅による辺境からの脅威の軽減、
四、境界域の確定による各都市相互の戦争の非日常化、
があった、と考えられる。
 より上位の権威・権力の中枢から指示されることがなくなった状況において(二)、なおかつ戦争下における意思決定の迅速性が至上命題ではなくなる(三、四)、結果、議論によって意思決定を行う余裕が生まれるからだ。
 しかし、このうち、民主制・・但し、直接民主制・・が実現したのは、古典ギリシャ、古代支那、の諸都市(小国家)の中で、基本的にアテナイ一か所にとどまったわけだ。
 アテナイの民主制は、レアケース中のレアケースであった、ということだ。
 これは、古典ギリシャの諸領域国家の人口が古代支那のそれに比して少なく、政治的に無権利の奴隷達もいたことから、直接民主制に馴染んだという必要条件に加え、アテナイの男性市民達が天才集団だった、という十分条件が揃ったからではないか。
 なお、私は、便宜上、アテナイや発足時の米国の政体を(普通選挙のニュアンスのあるところの)「民主制」の範疇に入れたわけだが、それは、「支配層中の成人男子の政治的完全平等性に立脚した政体」なのであって、これを一言で表す、新たな言葉を作る手間を省いたということである、と受け止めて欲しい。
 なお、イギリスの議会主義政体は「支配層中の成人男子の政治的完全平等性に立脚した政体」、すなわち、「民主制」ではない。
 国王の血統の人々に国王に選ばれ得る特権を付与しているし、議会主権と言っても、かなり前まで、世襲貴族だけで構成されていた上院に立法権の一部と司法権を掌らせていた(典拠省略)からだ。 (太田)

 <支那>と西方との貿易は後漢以後に盛んになったものであり、この論文の対象とする戦国時代より前漢の終りに至るまでの時代には、外国貿易の経済に占める割合は少なかった。<他方、アテナイ>においては、・・・肥沃な土地が少なく穀物消費量の半分以上を輸入に頼った<ことから、>・・・穀物の輸入の必要上、外国貿易は必要欠くべからざるものであった。穀物(大麦、小麦)は主として黒海の沿岸、エジプト、<シケリア(シシリー)>から輸入された。・・・その他の重要な輸入品は船舶建造に必要な木材で、これは主としてマケドニアから輸入された。この木材は銀の精錬に必要な炭の原料にもなった。・・・
 <アテナイ>の方が中国よりも貨幣経済が発達していた<が、>・・・両者における貨幣経済の発達の差異はある程度は両者の総面積の差異によるものであろう。<アテナイ>市民は日常の売買の大部分をアゴラで行ったと思われるが、<支那>では市場から遠く物々交換に頼らねばならなかった農村があったであろうことは十分想像できる。なお・・・漢と古代ローマ<とでは、>後者の貨幣経済がより発達していた・・・
 ・・・穀物の平均的価格に基づ<き、>・・・また、労働者の報酬によって通貨の価値を比較<したところ、>・・・全く独立に計算した2国の・・・奴隷を除く人口・・・一人当たりGDPが比較的近い額になった・・・

⇒ということは、「人間」一人当たりGDPは、アテナイより古代支那の方が大きかった可能性がある、ということだ。
 このGDPの具体的計算根拠等を知りたいところだが・・。(太田)

 まず重要な共通点は、両文化において農業を重視する・・・経済・・・思想が強固なることである。・・・
 <また、支那>の戦国時代と<アテナイ>の古典期(前510~ 前322年)はともに戦闘に従事することの多い時代であった・・・」
https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/kk31-2-1.pdf
(『日本銀行金融研究所/金融研究2012.4』に収録。雨宮健スタンフォード大学教授(当時))
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 座興で、雨宮論考に触発された、相当こじつけ的であると自分自身が思っていることにも、下掲の囲み記事で触れておきましょう。

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[古典ギリシャと古代支那のそれから]

〇ビザンツ帝国・宋の滅亡まで

 古典ギリシャ→戦国時代(ペロポネソス戦争(BC431~404)~→「辺境」大国マケドニアによると統一(BC331)→ローマによるマケドニア(アンティゴノス朝)征服(BC168年)→ローマ滅亡(476年)→ビザンツ(ギリシャ化したローマ後継)帝国滅亡(1453年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%82%BD%E3%82%B9%E6%88%A6%E4%BA%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B4%E3%83%8E%E3%82%B9%E6%9C%9D
 古代支那→戦国時代(晋が韓・魏・趙の三国に分裂(BC453)~→「辺境」大国秦による統一(BC221年)→淮夷(東夷)地域(注3)出身の劉邦(漢)による簒奪(BC202年)→漢滅亡(220年)—-→宋(北狄化した広義の漢後継)帝国滅亡(1276年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6

 (注3)「春秋戦国時代には、江蘇は当時の<支那>文明の中心河南西北部から距離があったことにより多くの地方文化を内包していた。淮河両岸は古代民族淮夷の活動地域であ<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%98%87%E7%9C%81
 「わいい【淮夷・・・】<は、支那の>殷代から春秋時代に淮水流域にいた民族。〈東夷〉の一つで,水稲農耕を主とした。・・・戦国期初めには漢民族と混血,融合した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B7%AE%E5%A4%B7-153718
 「劉邦<は、>・・・泗水郡沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で・・・誕生した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%82%A6 前掲

〇復興運動の挫折

 ・ローマ復興運動
 フランク王国→神聖ローマ帝国→ハプスブルク帝国→フランス帝国→ドイツ帝国、によるローマ帝国復興運動はことごとく挫折(1945年)。
 (ハプスブルク帝国の挫折以後の諸挫折は、イギリスが元凶。)
 現在、EUという形で、復興運動が進行中。

 ・漢復興運動
 明の自傷行為(注4)と清による明の滅亡によって挫折(1644年)。 

 (注4)「朱元璋は・・・明<の皇帝に>・・・即位すると、大規模な漢族回帰政策を行った。農業と儒教は重視され、商業は軽視された。また厳重な海禁政策が取られ、中世の間、比較的先進的だった中国が、ルネッサンスを迎える西欧に抜かれる幾つかの原因を作った。晩年には恐怖政治を行って、藍玉や方向儒ら創業以来の功臣を次々と粛清し、連座も含めて処刑された者達は数万人に上った。 朱元璋の死後、孫の建文帝が即位したが、洪武帝の四男である朱棣が反乱(靖難の変)を起こし、永楽帝として皇帝になった。永楽帝は、モンゴルを攻撃するなど、積極的に対外進出を進めた。また、海禁の例外として、国営貿易<が>行われ、鄭和を南洋に派遣して、諸国に朝貢を求めた。
 永楽帝の死後、こうした例外が無くなったことで海禁政策は完全化し、貿易は著しく制限された。その後、モンゴルが再び勢力を強めはじめ、1449年には皇帝がモンゴルの捕虜になるという事件(土木の変)まで起きた。同じ頃、中国南部沿岸には、倭寇と呼ばれる海上の無法者たちが襲撃を重ねていた。これは、海禁政策で貿易が自由にできなくなっていたためである。」
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2

 復興を諦め、現在、中共において、日本化が進行中。

 古典ギリシャと古代支那のそれからも似ている?
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2 本題

 (1)サンソム本からの引用

 さあ、ここからが本題です。
 「アジアの諸文明とヨーロッパ文明には、後者だけがギリシャ古典文明を継受していることから、根本的な違いがある」的なことをサンソムが言っている箇所を引用し、私が適宜コメントを加えることから始めたいと思います。
 (数字は、『西欧世界と日本』(上巻)の頁を示しています。)↓

 「日本の文明が独自なものであり、それが他の文明と明確に異る多くの変容(ヴァリエーション)を示しているとしても、日本の文明は、その生成の基礎的な諸要素から見れば、やはり一般的なアジア的な型(パターン)にはまっている。」(17)

⇒日本文明は、アジアの諸文明を含む他の文明と明確に異なる多くのヴァリエーションを示すところの、持続可能な人間主義文明であって、最も高度かつ普遍的であるところの、独自な文明です。
 (ちなみに、アングロサクソン文明もまた、他の文明と明確に異なる多くのヴァリエーションを示すところの、個人主義を主、人間主義を従とする人間主義的文明であって、日本文明に次いで高度ではあるものの必ずしも普遍性を有しないところの、独自の文明です。)(太田)

 「アジアとヨーロッパの文化の差は、真にアジア的な文化がすべて・・・農業経済・・・の段階をまだ抜け出ていないのに反して、ヨーロッパの諸文化はみな、多かれ少なかれ、新しい段階に向って動いており、その新段階では単純な農業経済は商業経済と結びつくか、あるいは商業経済によってとって代わられており、商業経済は新しい機能と新しい階級を創り出して、都市と都市居住者の重要性を増し、共同体の生活を多様化して、ついにはその本性を変化させるに至った、という事実にある。

⇒いつの時点の話なのだ、と言いたくなりますが、先に進めます。(太田)

 ヨーロッパの歴史家の多くは、エーゲ海の都市国家がもった古代の型(パターン)の中にこの差の第一の徴(きざし)を見てとる。
 主として地理と風土に関係する数多くの理由から–それは必ずしもすべてが明瞭な理由ではないが–この地方は古い文明とは驚くほど対比的な、新しいいくつかの互いにやや異なる文明を発展させたのである。
 西暦紀元前の千年前、たとえば<支那>やインドでは、土地に固着した人間たちが巨大な面積の土地を耕していたころ、地中海の水に洗われたこうした小さな島々や半島では、自分たちの土地からの産物ではほとんど生存が不可能なために、境遇と気質によって、自由に海外渡航を行なうことを余儀なくされた人々が住んでいた。
 この海上貿易は、成長するにつれて、商人、造船業者、航海家、その他の専門家の新しい社会階級を作りだした」(21)

⇒雨宮が、古代支那の商業を含めたアテナイとの類似性を指摘してくれているわけですが、古代日本についても、同じことが言えます。↓
 日本の「後期旧石器時代には、神津島の黒曜石が関東地域に継続して運ばれていたことが判明している。
 縄文時代<になると、>水運には丸木舟が使われ、硬玉の翡翠で作られた装身具が列島各地に流通して、石器は200キロから300キロの距離を運ばれている。黒曜石は旧石器時代と縄文時代を通して朝鮮半島やサハリンにも運ばれていた。日本列島では新潟県の糸魚川市周辺でしか産出されない翡翠の加工品が青森県の三内丸山遺跡で出土するなど、規模は小さいながらも広範囲で交易が行われていたことが推測される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%B2
 つまり、日本の場合、農業時代より前の縄文時代において、既に、三内丸山遺跡のような都市群があり、アジア大陸まで広がる広域商業ネットワークにこれら都市群が繋がっていたわけです。
 況や、農業時代の弥生時代以後においてをや。
 なお、アテナイだって、中継貿易だけで食べていたわけではなく、その社会の基盤は農業にあった、ということも、雨宮が指摘してくれているところです。(太田)

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 [縄文時代の交易の商業性]

 日本の商業の歴史は弥生時代から、というのが、依然として日本では通説のようだ。↓

 「<日本の>商業の2000年の歴史を振り返る。
◦弥生・古墳・飛鳥時代の商業
 ・市や商人の誕生
 狩猟採集社会から農耕社会になり、さらに手工業生産の農業労働からの分離が進むと、物品貨幣を基礎とした交換経済が成立し、一定の市場が形成された。
 辻や津など人や物が集まる場所では、物品交換を行う場として「市」が自然発生し、物品の調達を生業とする商人も生まれた。
 中央集権化が進むと、多くの豪族たちが居住する河内・大和に市が発達した。
 ・古代の市
 代表的な古代の市である大和国海石榴市(つばいち)は、集落としては2~3世紀から存在が確認できる。
 『日本書紀』にも飛鳥時代に隋使を迎えるなど頻繁に記事が見え、平安京へ遷都後も、長谷寺参詣者が立ち寄る市として賑わった。」
http://rekishi-memo.net/japan_column/shougyou.html

 これは、「後期旧石器時代<と>・・・縄文時代<の>・・・交易は商業的な取り引きではなく、贈り物のやり取りによる互酬の面を持っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%B2 前掲
という、これまた、通説、を前提にしているからだろう。
 しかし、既に、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』の中で、等価交換(equivalent exchange)としての互酬性(antipeponthos=reciprocity)こそ、諸商業的取引(commercial transactions)の核心(central)である、と指摘している
https://link.springer.com/article/10.1007/s12232-007-0030-5
ように、互酬もまた、商業的取引に他ならない、と言うべきだろう。
 そうだとすれば、日本の商業の歴史は、少なくとも縄文時代に遡る、ということになろう。
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 伝統的な地主支配者と受動的な農奴との間に活動的な中産階級が今や挿入されるようになった。・・・
 こうした起源から、ギリシアの偉大な時代–西暦紀元前5世紀・4世紀–に、新しいタイプの社会が発展した。
 その社会は政治上経済上の自由と言う概念に支配され、もっぱら航海・植民・防疫を事とし、数学・天文学・地理学などの科学の研究をさかんに行なった。
 これこそが、その後歴史の上ではさまざまな運命をたどったが、ヨーロッパ生活の中でその特徴といえる政治的・社会的な様相–すなわち民主主義的政治原理・個人主義的教理・学問探求の精神–を生み出した要素の先駆なのである。」(22)

 皆さんが読む際に目障りになったのではないかと心配されるくらい、茶々を、諸所に入れましたが、私が一番問題にしたいのは、サンソムのこの結論部分です。
 「個人主義的教理」は、アングロサクソン(文明)だけの話で、古典ギリシャとはご縁がないと私は思うので、「民主主義的政治原理」と「学問探求の精神」に焦点を絞って、更に進めることにしましょう。

 (2)古典ギリシャ文明ならぬアテナイ文明

 まず、言いたいのは、「民主主義的政治原理」と「学問探求の精神」の二つが、「古典ギリシャ」全体には当てはまらないのではないか、基本的にアテナイだけにしか当てはまらないのではないか、ということです。
 結論を先に述べておきますが、アテナイ文明の出現は、並みの親から天才が生まれたに等しい、人類史上の突然変異だった、と、私は言いたいのです。
 (雨宮が、「古代ギリシャをアテネによって代表させたのは、多くのポリスのうちアテネが他をはるかに超えて貨幣経済を発達させたということと、残存する当時の著作と出土文字資料の量においても他のポリスを凌駕するという事実による。」と指摘していることを想起してください。)
 天才を承継することなんて不可能ですが、天才的なアテナイ文明だって、誰も継受できなかった、とも・・。
 
  ア 民主制の生誕

 「民主主義的政治原理」、すなわち、民主制、の生誕から行きましょうか。↓

 「アテナイの民主主義・・・は、紀元前5世紀前後のアテナイとアッティカの周辺地域において発展した。世界で初めての民主主義として知られており、ポリス(都市国家)において発展した。他のギリシアの都市では、アテナイの方式に倣った民主主義が成立していたが、アテナイの民主主義ほど記録が残されていない。
 アテナイの民主主義は、直接民主制であり、市民が法律や法案に直接投票した。しかしすべての住民が投票に参加できたわけではなく、投票者は、大人の男性市民である必要があった。そのため外国人居住者、奴隷、女性に投票権はなく、その数は人口約25~30万人のうち3~5万人、あるいは「成人の総人口の30%未満であった」と言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%81%AE%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 私は、住民のうちのごく一部しか対象ではないような政治制度が果たして民主制と言えるのだろうか、めいたことを書いたこともあります(コラム#省略)が、そんなことを言い出すと、トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』(第一巻)を上梓した1835年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%AF%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB
時点では、米国では、アテナイ同様、外国人、奴隷、女性に投票権がなかった上に、州や地方で、投票権に財産資格や納税資格を要求していた所さえ少なからずあった(注5)ことから、「民主制の度合」がアテナイよりも低かったにもかかわらず、トクヴィルらは米国が民主制であることを当然視していたところ、そんな認識はいかがなものかと私自身は思うけれど、少なくとも、アテナイは民主制であった、と言わざるをえないでしょう。

 (注5)米国憲法は、最初は、連邦下院議員の選挙権資格は各州がさだめるものとしており、憲法発効時点(1788年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
においては、13州中、10州が財産資格を求め、9州が納税資格を求めており、財産資格が完全に廃止されたのは1856年(ノースカロライナ)で、納税資格が完全に廃止されたのは1933年!(ペンシルバニア)・・その前には1891年(マサチューセッツ)・・であって、
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/16427/1/34(1)_p43-77.pdf
1865年の奴隷制廃止
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95 前掲
を経て1870年には黒人を含む全人種の成人男子に選挙権が付与されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%80%9A%E9%81%B8%E6%8C%99

 その上でですが、アテナイの民主制が「世界で初めての民主主義」であって、それは同時に、「世界で初めての直接民主制」、であること、「他のギリシアの都市では」余り「民主主義」の「記録が残されていない」、つまりは、民主制が機能しなかったように見受けられること、従って、世界で二番目の民主制は、(スイスのケース(下述)を別にすれば、)米国の民主制であって、それは同時に、「世界で初めての間接民主制」、である、ということになる、というのが、現在の私の見解です。

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[イギリス・スイス・フランスと民主制]

・イギリス
 議会主権だから、(人民主権を前提としているところの)民主制ではない。
 「ルソーは『社会契約論』のなかで、「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民はドレイとなり、無に帰してしまう」、と・・・批判してい<る>。」
http://www.phai-tottori.com/index.php?02web_d

・スイス

 「スイスは、・・・中世から近代に至る<まで、>・・・それぞれのカントン(邦または州)の広場の「ランツゲマインデ」と呼ばれる住民集会または青空集会で邦の政治を行なってきましたが、この直接民主政の制度は人口の増大などの変化に対応できず、現在では26州のうち2州でしか行われ<なくなってしまっている>。
 そこで、スイスの各州と連邦国家は、直接民主政に準ずる「半」直接民主政の制度として、イニシアティブ(発議権)とレファレンダム(住民投票)を導入してい<る>。むろん、スイスにも代議制の議会は存在<しているが>、市民にとって重要な問題は、議会まかせにせず、市民のイニシアティブに基づいて発議し、所定の署名を集めたらレファレンダムにかけて決定する仕組みとなっている・・・。」(上掲)
 すなわち、スイスは、成立当初から、構成カントン群が直接民主制を採用していたことから、民主制だったのであり、それは、アテナイに次いで世界で2番目に成立した直接民主制だった。

・フランス

 「1792年の第一共和政のフランス・・国民公会によって王政廃止が宣言された1792年9月21日から、ナポレオン1世の下で帝政が宣言された1804年5月18日まで存続した・・・
 [ただ1回実施された総選挙では、奉公人や召使いを除く21歳以上の全男性に投票権が与えられた]・・・<ところ、>国民公会では1793年憲法が制定されたが、施行され<ず、>・・・国民公会は体系化された憲法を持たないが、公会自らが時々で規定した各種の法令(フリメール14日法等)によって成り立つという特殊な議会となった。
 また公安委員会は国民公会内の常設委員会であり、国民公会は名目的には執行機関も兼ねていた。このように国民公会は立法と行政を混濁した一院制議会であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%85%AC%E4%BC%9A ([]内)
 「第二共和政・・・は、1848年の二月革命から1852年のナポレオン3世皇帝即位(第二帝政の成立)までの期間のフランスの政体を指す。・・・
 3月初旬、憲法制定国民議会の開催にむけて、選挙に関して21歳以上の成人男子選挙権に基づく法令が示された。
 4月23日に国政選挙が実施され、880人の議員によって議会が発足した。・・・ 
 11月4日に憲法が採択され、第二共和政の政体が決められた。<米>国の政治形態がモデルとなっており、議会(立法府)と大統領(行政府)は対等の関係であり、大統領は国民議会から独立して首相と閣僚を任免する権限を持つが、代わりに議会解散権は有さなかった。そのため大統領と議会が対立した場合には行政と立法間の捻じれ・・・という制度になっていた。また、大統領の任期は4年であり、連続再選はできなかった。・・・
 <そして、>1848年・・・12月10日に・・・フランス大統領選挙が・・・行われ、・・・ルイ・ナポレオンが・・・圧勝した。・・・
 <更に、>1851年12月2日のクーデター<を経て、>・・・1852年11月22日、国民投票でルイ=ナポレオンの皇帝即位が可決され・・・同年12月2日、皇帝ナポレオン3世として即位<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF

 上掲から、独裁者「選出」まで、第一共和政は12年、第二共和政は4年であったところ、前者は総選挙1回のみ、後者は対となる選挙1回(総選挙1回、大統領選挙1回)、のみでそれ以降は国民はドレイになってしまったのだから、どちらも民主制の名に値しない。
 なお、「第三共和制<(1871年~)では、>・・・1875年憲法<で>・・・二院制(上院(元老院)と下院(代議院))の一元主義型議院内閣制<が、>・・・また、任期7年の共和国大統領が名目的元首となり両院による多数決で選出されることが定められた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%85%B1%E5%92%8C%E6%94%BF
というのだから、紛れもない民主制・・但し、間接民主制・・であると言える。
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  イ 古代科学の生誕

 古典ギリシャ・・原則ヘレニズム時代は入れない・・の著名人リスト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
を一瞥すると、殆どがイオニアとアテナイ出身者であることに気付きます。
 唯一の例外は、南イタリア出身のゼノンだけです。
 そこで、まず、ゼノンから行きますが、彼のパラドックスは詭弁に過ぎず、また、彼の自然哲学は妄想に由来する誤謬でしかありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3_(%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A2%E6%B4%BE)
 その上で、イオニア出身達です。
 「哲学」から行きますが、タレス(注6)やアナクサゴラスやアナクシマンドロスやヘラクレイトスの自然哲学は、どれも、やはり妄想に由来する誤謬でしかなく、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%82%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%B9
デモクリトスの自然哲学(原子論)は、たまたま近代の原子論に相通ずるものがあったけれど、やはり、妄想に由来するものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%B9
 結局、以上の全ては、例えば、同時代に生まれた、支那の道家の自然哲学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
と妄想度においていい勝負でしょう。

 (注6)タレスはそもそもフェニキア人だし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%82%B9 前掲
また、有名なタレスの定理は彼より前から知られていたものだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86

 次に数学ですが、ピタゴラスの数学的音階の発見は支那でもほぼ同じ頃発見されており世界初かどうか定かではありません
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9
し、ピタゴラスの定理の発見の方はピタゴラス教団の集団的発見であったらしいところ、世界最初であった可能性はあるけれど、その後5世紀ほどの間隔以下で支那でも独自に発見されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%90%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E7%AB%A0%E7%AE%97%E8%A1%93

 ヒポクラテスも有名ですが、「医学を原始的な迷信や呪術から切り離し、臨床と観察を重んじる経験科学へと発展させた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%9D%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9
というのは、ウソに近いのであって、「たしかに『ヒポクラテス全集』には、一部(『養生法』4,79,90各節)を除いて迷信的要素はないが、一方でヒポクラテス自身解剖学的、生理学的に誤りである四体液説を信じ、これに基づいた医療行為を行っていた」(上掲)というのですから、彼の「医学」は、単に迷信を妄想で置き換えただけの代物だからです。
 ヒポクラテスはBC400年前後の人です(上掲)が、同じ頃の人と思われる、支那の名医の扁鵲(へんじゃく)が「巫を信じて医を信じざればすなわち不治」という言葉を残している一方で、妄想に基づく医療行為を行っていた様子がないので、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%81%E9%B5%B2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8C%BB%E5%AD%A6#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
この時点では、支那の方が医学に関して、むしろ先進的であった、と言えそうです。

 また、歴史学に関してですが、「概ね前490年-前480年の間に生まれ、前430年から前420年の間に、60歳前後で死亡したと<され>る・・・ヘロドトス<以前にはhistoriaが意味する「探求」とは神話や系譜、地誌に関することであったが、ヘロドトスはこれを「人間界の出来事」にまで広げた<ことから、>・・・しばしば「歴史の父」とも呼ばれる」人物ですが、その名に値する著作を残したと言えるかどうかに疑問符がつけられています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%88%E3%82%B9
 しかし、仮に残したと言えたところで、支那において、歴史書である『春秋』(対象:BC722~481年)が書かれたのは、時期的に、彼が書いた『歴史』より相当前です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B
から、ヘロドトスが世界における「歴史の父」である、とは到底言えないでしょう。

 更に、文学についてですが、ホメーロスは実在が疑問視されていますが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%B9
紀元前8世紀半ば頃に長編叙事詩の『イーリアス』が作られたとされていますし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%B9
ヘーシオドスはBC700年ごろに叙事詩『仕事と日』を書いています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%89%E3%82%B9
 しかし、周の宣王は、BC800年前後に在位していたところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)
「『詩経』采微では、当時の周王朝と玁狁の戦いの状況と兵士の厳しい生活を・・・描写し<ているところ、>東晋の謝玄はこれを『詩経』中で最高の詩篇と称して」いますし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%B3%E5%85%81
宣王の臣下であった尹吉甫がこの『詩経』に収録された詩のうちの4篇の宣王を称えた叙事詩を作ったことが知られており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%B9%E5%90%89%E7%94%AB
こちらの方が世界最初の(後世に影響を及ぼした)詩や詩人でしょう。

 結局、古典ギリシャの偉業とみなしうる諸事は、そのほぼ全てがアテナイの産物であって、それは、一種の突然変異によって、アテナイに天才的人間集団が出現したおかげである、とでも考えるほかない、奇跡的なことだった、というのが、繰り返しになりますが、私の見方なのです。

 では、アテナイの学者・文学者・芸術家を見ていきましょう。 
 学者からです。
 トゥキディデス(BC460?~395?年)の著作である『戦史(ペロポネソス戦争の歴史)』は、世界初の客観的、実証的な歴史書として有名です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%87%E3%82%B9 ※
 支那で、初の客観的、実証的な歴史書としては、司馬遷(BC145/135?~87/86?年)の『史記』が有名ですが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%B7
両者の間には300年ほどのタイムラグがあります。
 これは、同時代史と過去史(過去=前王朝以前)の違いによる必然的なタイムラグであって、支那が後れをとったということでは必ずしもないでしょう。
 (もとより、前者は同時代史でかつ自分の身近な事件(自分が従軍した戦争(※))についてのルポルタージュに近いのに対して、後者は過去の歴史を扱っていることに加えて浩瀚な著作である、という違いもあります。)
 これは、アテナイは民主制だったので、客観的、実証的な同時代史を書いても古代支那におけるように権力者によって迫害される恐れが基本的になかったからでしょうね。
 プラトンの対話篇とアカデメイア、は、まさに世界史的画期であったと言えるでしょう。
 対話篇(dialogue, ダイアローグ)とは、「複数の登場人物の間での対話形式を採った文学ないし学術作品である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E7%AF%87
わけですが、「文学ないし学術作品」という性格のものなど、空前のみならず絶後です。
 いずれにせよ、対話篇の学術的水準が極めて高いことはご存知の通りです。
 対話篇の主人公は大部分ソクラテス(BC469?~399)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9
ですが、どこまでが史実としてのソクラテスでどこからがプラトンの創作たるソクラテスなのか定かではなく、要するに、対話篇は、プラトン(BC427~347)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
の著作群であるわけですが、対話篇の学術(科学)の水準は、同時代の支那の諸子百家の学術(科学)の水準を遥かに凌駕しています。
 その理由は、ここでも、というか、それこそ、アテナイの民主制にある、と私は見ています。
 つまり、古代支那では、(後出の稷下の学士達のケース等を除いて)対等者間の対話が殆ど行われず、師弟間の質疑が中心であって、弟子が先生を言い負かすわけにはいかなかったのに対し、民主制の古典ギリシャでは、男性成人市民達は平等であり、対等な立場で登場人物達が対話を交わすのが当然視されていて、だからこそ、アテナイの、より端的にはプラントの、対話篇、における学術(科学)の水準が高いものになったのだ、と。
 そして、あえてもう一点付け加えれば、アテナイの学者・・文学者、芸術家もですが・・の多くは、市民兵として従軍経験があり、軍事についてもそれなりの見識を持っていた場合が少なくないことです。
 (ちなみに、プラトンには従軍経験がないけれど、大会に出場したくらいのレスリングの力量を持っていました。(上掲))
 トゥキディデスもそうでしたが、対話篇の大部分の主人公であるソクラテスも、「ペロポネソス戦争期に,[自前の武器で]重装歩兵として北ギリシアに2回,ボイオティアに1回従軍し,賞賛すべき忍耐心と沈着の勇を人々に印象づけた。 」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9-89963
https://brave-answer.jp/16892/ ([]内)
のであり、だからこそ、対話篇の(倫理学や国家学等の)文系科学の水準は、従軍経験がな(く、スポーツの経験もな)い孔子
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90
の(倫理学等の)文系科学の水準、を凌駕する、より普遍性のあるもの、になったとも私は見ています。
 アカデメイアは、そういう名称の既存の公共施設ギュムナシオンをプラトンが利用し、発展させたもの(BC388年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%83%A0%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3
ですが、彼が、「40歳頃の第一回シケリア旅行<の際に、ピタゴラス>学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と、輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を重視するようになり、それらと対になった、感覚を超えた真実在としての概念を醸成してい<き、> ・・・シケリア旅行からの帰国後まもなく、・・・<彼が主宰した>アカデメイアで・・・天文学、生物学、数学、政治学、哲学等が教え<られ>るようになっ>た・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%A2
ところ、教育・研究が、(体育に加えて、)文理にまたがっていたことが、世界史上において、(とりわけ、後述するところの古代支那との対比において)画期的なことだったのです。

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[ギュムナシオン]

 「・・・<古典ギリシャでは、>身体を鍛えるときに裸になった<ところ>、ギュムナシオンという名詞は「裸になる場所」を意味すると同時に「身体を鍛える場所」を意味するようになった。歴史的には、ギュムナシオンはエクササイズにも、入浴にも、哲学者が哲学的論議をする場所にも供された。・・・
 <すなわち、>ギュムナシオンは一方では教育とつながり、他方では医学とつながるようになった。・・・
 運動競技・・・は英雄や神々に敬意を表して行われ、定期的な祭礼の一部として行ったり、有力者の葬式の一部として行ったりした。古代ギリシアの生活様式は自由で活動的であり(屋外で過ごすことが多く)、それがスポーツが盛んに行われることにつながり、最終的には運動競技がギリシア文化の特徴の1つとなった。・・・
 その慣習の主要な理由は男性の肉体美の鑑賞にあったと考えられている。・・・
 アテナイには、大きなギュムナシオンが3つあった。アカデメイアとリュケイオンとキュノサルゲスであり、それぞれ異なる神に捧げられていて、それぞれの神の像で飾られていた。この3者は、それぞれ有名な哲学の学派と関係が深い。<アカデメイアはプラトンと、リュケイオンはアリストテレスと、そして、>アンティステネスはキュノサルゲスでキュニコス派<(注7)>を作った。・・・
 ローマ共和政では、・・・強制キャンプ生活と行軍と戦闘ゲームがギリシアの運動や体操に取って代わった・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%83%A0%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%82%AA%E3%83%B3 前掲

 (注7)「<ソクラテスの弟子であるプラトンはプラトン学派、そのプラトンの弟子であるアリストテレスは逍遥学派、の祖になったが、>ソクラテス<のもう一人>の弟子であるアンティステネスを祖とするヘレニズム期の古代ギリシアの哲学の一派である。シニシズム(シニスム)、キニク学派(キニク派)、犬儒学派(犬儒派、犬のような乞食生活をしたから)ともいう。
 ヘレニズム期の他の学派同様、倫理哲学にその特色をもつ。禁欲を重視するところではストア派とも通じるが、より実践を重んじ認識論的展開を見せなかった。無為自然を理想として、現実社会に対しては諦めた態度を取っており、古典期の社会(ポリス)参加を重視する倫理思想と大きく異なる。シノペのディオゲネスが有名である。「嘲笑する、皮肉屋な、人を信じない」という意味の「シニカル」という語は、キュニコス派を指す英語 cynicを形容詞化したcynicalに由来する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%82%B9%E6%B4%BE
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 このアカデメイアは、実に、900年以上にわたって存続します。(上掲)
 また、文理に共通の科学方法論も論じられ講じられました。
 ちなみに、プラトンの科学方法論は、合理論・物理学的であったのに対し、アリストテレスの科学方法論は、経験論(但し、観察に留まる)・生物学的でした。
https://blog.goo.ne.jp/googakim/e/e8dfa4a5f2bc8d9d364b53dd6029fb11
 このようにして、アテナイ科学、すなわち、古代科学、が生誕したのです。

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[古代科学生誕の画期性と限界]

 「エジプトに限らず古代オリエント全体の科学<的営み>に・・・共通するのは、呪術的、神話的、宗教的、実際的色彩が強く、客観的、合理的に自然を観察してそこから普遍的、法則的なものを引き出すという態度がほとんどみられなかった点であろう。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E7%A7%91%E5%AD%A6-1509773
 「<ちなみに、古代>エジプト<では、>・・・奴隷の数は少なく,家内奴隷が主体で,生産の主要な担い手となることはなく,貢納賦役の忌避者,罪人,外人奴隷,奴隷の子などからなり,新王国では捕虜奴隷が急増する。商業の未発達のため債務奴隷の少ないの<も>エジプト奴隷制度の特色である。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A8%E3%82%B8%E3%83%97%E3%83%88%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E5%88%B6-1276686
 これに対し、「ギリシャ人の科学は,奴隷制の上になりたった都市国家の中で発展した<(注8)>ために,直接自然と接して生まれたものではありませんでした。そのため,抽象的なものは異常に発展しましたが,物に即したものはいくつかの例外を除いて見るものがありませんでした。例外とは,博物学におけるアリストテレスと医学における<ヒポクラテス>です。アリストテレスの弟子の<テオプラストス(注8)>は,鉱山や自然を観察して,「石について」という書物をあらわして,鉱物や化石について記載しています。」
http://www.dino.or.jp/shiba/geohist/geohist01.html

 (注8)但し、「ギリシャ世界のポリスはスパルタを除けば奴隷の収奪を主要な目的とした社会組織ではなかった。・・・
 [奴隷<は、>家庭内労働、鉱山、ガレー船員、軍事物資の輸送、神へ捧げる生贄など様々な場面において使用された。スパルタは大量のヘイロタイを農奴として使役した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7 ]
 〈紀元前1500年頃からペロポネソス半島ラコニア地方に定住していたアカイア人は、紀元前1100年頃にスパルタ人に征服され全て奴隷身分に落とされヘイロタイと呼ばれた。また紀元前8世紀頃第一次メッセニア戦争にてメッセニアも征服され、住民はヘイロタイにされた。ヘイロタイは家族を持つことは許された国有奴隷である。代々奴隷身分を引き継ぎ土地に縛られ農業に従事し、主人であるスパルタ人に収穫物の一部を貢納した。約5万人(市民とその家族)のスパルタ人に対し約10万人のヘイロタイが存在した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%82%BF%E3%82%A4 〉
 <ちなみに、テオプラトス(Theophrastus。BC371~287年)は、>「レスボス島生まれの哲学者、博物学者、植物学者<にして、>・・・アリストテレスの同僚、友人で、・・・アリストテレスの次に、リュケイオンの学頭を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B9
——————————————————————————-

 他方、古代支那においては、「西周時代から設けられた・・・辟雍(へきよう)<という、王>が命じてつくらせた・・・高等教育機関<があったけれど、それは、>・・・饗礼・射礼・養老礼などの儀式をおこなう場所であり、教化のための施設で<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%9F%E9%9B%8D
し、「戦国時代の斉では、紀元前4世紀後半・・・威王と宣王<が>「臨淄<(りんし)>の城門の一つである稷門(しょくもん)の傍らに文化区域を設定し、遠く各国から学者、思想家を招いて、その稷下の文化地域にりっぱな邸宅を建てて住まわせた<のですが、>かれら学者たちは、卿(大臣)につぐ高級官僚の俸給をもらいながら、決まった職はなにもなく、講堂などに集まって、学問についてお互いに討論しあっていた<ところ、>こうして、天下の有名な学者、思想家が集まり、稷門のほとりに住まっていたので、世にこれを稷下の学士とい<います>。」ここに集まったのは孟子や荀子などの儒家をはじめ、諸子百家の代表的な流派がすべて含まれていた<(貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』講談社学術文庫版 p.467)>」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-048_5.html
とはいえ、こんな「施設」は威王と宣王の在位時代だけしか存続しなかったでしょうし、そもそも、文系学問だけだったでしょうし、当然のことながら、科学方法論が論じられることもまたなかったことでしょう。

 なお、アテナイの生み出した戯曲群が文学的水準が極めて高かったことについては、改めて申し上げるまでもありますまい。
 アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、の悲劇・・「悲劇の誕生」の画期的意義について、前に書いたことがあります(コラム#省略)・・、や、アリストパネスの喜劇の作品群のうちの少なからぬ作品が、現在もなお、世界各地で上演され続けていることがそのことを物語っています。
 本格的に脱線すると長くなり過ぎるので、これだけにとどめて、先に進みます。

 このあたりで、ポリュビオスやエウクレイデスやアルキメデスは有名だが、アテナイ人ではないではないか、と批判する方が出てくるのではないでしょうか
 まず、この3名は、アテナイの黄金時代が終わった後の、ヘレニズム時代のギリシャ人達であって、彼等と自分は同じギリシャ人なのだから彼らに匹敵する業績を上げることができないはずがない、と思えたからこそ、それぞれ、業績を上げることができた、という意味で、彼らは広義のアテナイ人だと見てよいのではないでしょうか。
 そもそも、このうち、メガロポリス出身のポリュビオス(Polybius。BC204?~125?年)については、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B9
その著作の『歴史』の中で、「歴史叙述だけでなく政体循環史観という独自の歴史観を示したこと」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2_(%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B9)
が高く評価されているわけですが、支那においては、上出の『春秋』で、既に、一定の価値観に基づき統治者達の月旦がなされているとされていますし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B 前掲
支那で最も著名な歴史書であって、同様の月旦がなされているところの、(上出の)『史記』(執筆:BC141~87年)が書かれたのは殆ど同じ頃です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
から、ポリュビオスの業績は、大幅に相対化されなければならないでしょう。

 「プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリア・・・で活動した」エウクレイデス(Euclid。BC3世紀?)による幾何学の体系化、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%B9
・・彼は、プラトンの学派だったとされています・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Euclid
、と、「マグナ・グラエキアの自治植民都市であるシケリア島のシラクサで生まれた」アルキメデス(Archimedes。BC287?~212年)の数学・物理学・工学への貢献
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%B9
・・彼はアレクサンドリアで学んだのですが、その時の彼の先輩学友で、彼の2つの著作が献呈されているエラトステネス(Eratosthenes。BC276~194年)は、それ以前に、アテナイで、アカデメイア等で学んでいます。
https://en.wikipedia.org/wiki/Archimedes
https://en.wikipedia.org/wiki/Eratosthenes ・・、の2人については、高く評価されるべきですが、どちらも、広義のアテナイ人であると言えます。

 さて、ここが肝要なのですが、古典ギリシャ文明、もとい、アテナイ文明、は、果たして、プロト欧州文明やアングロサクソン文明に決定的影響を及ぼした(注9)のか、です。

 (注9)「ヨーロッパ文明の基調をヘブライズム(ユダヤ教・キリスト教)と、ヘレニズムに求める見解は、19世紀にマシュー・アーノルドによって示された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
 実は、アングロサクソン文明と(プロト欧州文明を含む)欧州文明は水と油なのに、両者を一括りにしていること、ヘブライズムは基本的に欧州文明の方だけの基調であるのにそう断っていないこと、また、以下で私が述べるように、ヘレニズム(アテナイ文明)はどちらの文明の基調でもないのに基調としていること、から、イギリス人がやらかす常習的韜晦の中でも、これは最も悪質なものの一つである、と言うべきだろう。
 ちなみに、アーノルド(Matthew Arnold。1822~88年)は、ラグビー校、オックスフォード大卒で、イギリスの耽美派詩人の代表であり、文明批評家だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89
 ところで、日本では、ヘブライズムとヘレニズムに加えてゲルマン性の3要素をヨーロッパの共通属性とする考え方が一般的だ。
 例えば、レストラン案内サイトの中にすら、「古代(西ローマ)、キリスト教、ゲルマンの3つの要素が融合し、・・・ヨーロッパ世界<が>成立<した」といった表現が当たり前のように出て来る。
https://www.metromin.net/feature/10238.html
 この3番目の要素たる「ゲルマン」性を付け加えたのが一体誰かだが、少し調べてみた限りでは分からなかった。
 ちなみに、立命館大学国際関係学科の中本真生子は、「古代ギリシャ、ローマ文明、キリスト教、ゲルマン民族の慣習」の4要素を「ヨーロッパ」の「大きな共通性」としている。
http://www.ritsumei.ac.jp/ir/ir-navi/common/pdf/chiiki/chiiki_text_04.pdf
 確かに、ラテン語が、長らく、ヨーロッパの共通語であったことは確かだし、ローマ法が、アングロサクソン文明とプロト欧州文明/欧州文明のうち後者には大きな影響を与えているので、古代ローマを独立した要素とするのも、一つの考え方ではある。

 私見では、その答えはノーです。
 というか、天才集団の所産であったアテナイ文明、によって決定的影響を受けるなどということは、天才もいないわけではないけれど、マクロ的には凡人達の集団からなるところの一般の諸文明にとっては、至難の業なのです。
 そもそも、アテナイ文明を崇めた古代ローマでさえそんなことはやれなかったのです。
 古代ローマは、共和制時代を含め、アテナイ文明の民主制とは無縁であり、だからこそ、科学とは無縁で芸術とも基本的に無縁・・文学も彫刻も大したことがない・・であり、優れていたのは軍事と土木技術くらいでした。(注10)

 (注10)「ローマ<人>・・・は,「力がすべて」「すぐに役立つもの以外は値打ちがない」という考えが強く,すぐに役立たないギリシャ人のような思想や思弁を軽蔑し・・・た。」
http://www.dino.or.jp/shiba/geohist/geohist01.html
 「ローマ帝国の主流となった美術は、作者が主としてギリシャ人であったので、ヘレニズム美術の延長となった。彫刻と絵画の領域では、古典期~ヘレニズム期のギリシャ美術を古典・典範とする見方が主流であり、模倣的な傾向が強い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E7%BE%8E%E8%A1%93

 また、このローマ帝国のギリシャ化した後継国家たるビザンツ帝国では、キリスト教の影響もあり、ローマ帝国時代よりも、あらゆるものが基本的に劣化してしまいました。(注11)

 (注11)「ビザンツは科学、哲学、政治理論のいかなる進展、あるいは偉大な文学を生み出すことについて功を帰されていない。」
http://d.hatena.ne.jp/Basilio_II/20141224/1419384668
 ビザンツの美術のダメさかげんについては下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E7%BE%8E%E8%A1%93

 アテナイ文明の枠内から基本的に一歩も出ないながらも、若干なりともギリシャ科学(のみ)を部分的に深化させたのが、勃興期のイスラム文明です。(注12)

 (注12)イブン・ハイサム(Ibn al-Haitham。965~1040年)による光学の分野がそうだ。また、アテナイ文明の枠内から一歩出たのが数学の分野であり、ゼロを含むアラビア数字と代数学の創造がそうだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E7%A7%91%E5%AD%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B5%E3%83%A0

 (同じことを、アテナイ芸術を部分的に(彫刻に関してだけ)やったのが北西インド世界ですが、これについては後述します。)
 ご承知だと思いますが、アングロサクソン文明とプロト欧州文明についても、アテナイ文明の存在を知ったのは、このイスラム文明を通じてであったという体たらくでした。
 いずれにせよ、知っただけでは何事も起こらないのが通例であることは、既に、古代ローマで実証済みです。
 実際、プロト欧州文明でも何事も起こりませんでした。
 しかし、天才集団ならぬ、天才文明のアングロサクソン文明・・これ以外で天才文明と言えるのは日本文明だけです・・において、アテナイ文明を知ることができたおかげで、科学の画期的な発展が早期に起こるのです。
 その契機となった人物を強いて一人だけ挙げるなら、グロステスト(Robert Grosseteste。1175?~1253年)(コラム#46)でしょう。
 彼は、アテナイ科学を部分的に深化もさせていますし、(後に宗教改革をもたらすところの)キリスト教における聖書典拠の提言も行っていますが、より大きな功績は、科学(的仮説)の数学的記述と(かかる科学的仮説の)実験による検証、を提唱したことです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Grosseteste

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[数学と古代科学・近代科学]

 永井俊哉(1965年~)・・「大阪大学文学部哲学科卒・・・東京大学大学院倫理学専攻修士課程修了・・・一橋大学大学院社会学専攻博士後期課程単位修得満期退学。第4回日本マルチメディア大賞他、4つの受賞論文がある。・・
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784921132866
は、次のように記している。↓

 「・・・自然は数学的な秩序に支配されているという・・・考えは、西洋の思想において初めて出てきたものではなく、その起源は、世界を数学的とみなしたピタゴラス学派にまで遡る。
 ピタゴラス学派による数学重視の哲学は、イデア界の実在性を説くプラトンに影響を与え、プラトンの影響下でエウクレイデスの『原論』が成立し、『原論』に代表されるギリシャ幾何学を発展させ、それを静力学に応用したのがアルキメデスであった。・・・
 十七世紀科学革命の最終的な到達地点である、ニュートンの『プリンキピア』の幾何学的な微積分学は、アルキメデスの幾何学的な解析と求積の継承とみなすことができる。」
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2013/mean-speed-theorem/

 しかし、私見では、下掲からしても、ピタゴラス学派は、数学的ならぬ、数的世界観/宇宙観、を提唱したのであって、仮説の、実験による検証可能性を高めるために、自然言語のほか、できるだけ数学なる言語も用いるところの、近代科学(後述)の考え方の祖であるとは言えない。↓

 「ピタゴラス・・・は和音の構成から惑星の軌道まで、多くの現象に数の裏付けがあることに気がついた。そしてついには、・・・あらゆる事象には数が内在していること、そして宇宙のすべては人間の主観ではなく数の法則に従うのであり、数字と計算によって解明できるという思想を確立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9

 だからこそ、プラトンは、ピタゴラス学派の世界観/宇宙観にヒントを得て、合理論的/演繹的な古代科学の方法論を提唱したものの、ついに、経験論的/帰納的な近代科学の方法論を見出すことはなかった、というのが私の見方だ。
 (そこを、一歩抜け出した、アリストテレスについては既述した。)↓

 「プラトンは・・・<ピタゴラス>学派と交流を持ったことで、数学<(ではなく「数」(太田))>・幾何学と、輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を重視するようになり、それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
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 この考えを更に発展させたのが、フランシスコ会修道士にして近代科学方法論を概成したロジャー・ベーコン(Roger Bacon。1219/20?~1282年)、
https://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Bacon
や、この方法論を駆使して、アテナイ物理学の一部の否定を含む実成果群を挙げた、カンタベリー大司教にもなったところの、数学者にして物理学者のトーマス・ブラドワーディン(Thomas Bradwardine。1300?~49年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Bradwardine
を筆頭とする、いわゆるマートン学派(注13)、であり、プロト欧州文明は、このようなアングロサクソン文明の科学、すなわち近代科学、を継受することによって、アングロサクソン文明以外の文明では、世界で初めて、近代科学が根付くのです。

 (注13)ブラドワーディンとオックスフォード大マートン校の同僚達のいわゆるマートン学派(Merton School)は、等加速度運動(uniformly accelerated motions)の発見と証明を行った。後者は、長く、誤ってガリレオの功績・・落体の法則と命名された・・とされてきた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Thomas_Bradwardine 前掲 
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2013/mean-speed-theorem/ 前掲
 等加速度運動については、下掲が(英語だが)分かり易い。
https://www.youtube.com/watch?v=0kQrz4dfxDw

 (なお、この近代科学概念を完成させたのは、同じアングロサクソン文明のニュートン(Isaac Newton。1642~1727年)です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A7%91%E5%AD%A6#%E8%87%AA%E7%84%B6%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%A8%E8%87%AA%E7%84%B6%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%82%84%E6%95%B0%E5%AD%A6%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3 )
 具体的に言えば、アングロサクソン文明において生まれた近代科学が、プロト欧州文明の、(パリ大にも伝わったけれど、)イタリア北部のパドヴァ大に伝わり、この大学を通じてガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei。1564~1642年)・・希代のパクリ「科学者」だったと言ってよい・・等に伝わり、これが、更にプロト欧州文明全域に広まった、のです。
https://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Grosseteste 前掲
 但し、近代科学の生誕、より正確には(観察なる方法論も含めた)アテナイ文明的な古代科学の創出及び実験なる検証法の生誕、は、たとえアテナイ文明が存在しなかったとしても、或いは存在したけれど完全に忘れ去られたままであり続けたとしても、いずれは、必ず、アングロサクソン文明が、単独で成し遂げていた、と私は見ているところです。(コラム#省略)
 アテナイ文明における古代科学創出の背景にあったのが民主制であったのに対し、アングロサクソン文明における近代科学創出の背景にあったのは個人主義であって、民主制も個人主義も、議論参加者の対等性を担保したからである、というのが私の仮説です。 

  ウ アテナイ文明は日本文明にこそ決定的な影響を与えた

 表記、及び、それは、アテナイ式彫刻たる仏像の伝達のおかげで日本に仏教が定着し、そのおかげで日本における人間主義が消滅を免れたからだ、というのが私の新説です。

 まず、古典ギリシャの彫刻の精華もまたアテナイの彫刻である、という認識を持っていただきたいですね。
 但し、例外が1人だけいました。
 それが、古典ギリシャ彫刻四天王のうちの1人であるポリュクレイトス(生没BC5世紀)です。
 (残りの3人は、ペイディアス、ミュロン、プラクシテレス、です。)
 彼は、アテネとスパルタの中間点くらいに位置するアルゴス
https://www37.atwiki.jp/diktaion/pages/184.html
出身でアルゴスで活躍した人物ではないかとされています。  
https://en.wikipedia.org/wiki/Polykleitos
https://en.wikipedia.org/wiki/Polykleitos#/media/File:Doryphoros_MAN_Napoli_Inv6011-2.jpg 作品(複製品のみ)
 しかし、残りの3人は、全てアテナイの彫刻家達です。
 ざっと紹介すると以下の通り。↓

ペイディアスPhidias(BC480?~430年): アテナイ出身、アテナイで活躍。ペリクレスの友人 。
https://en.wikipedia.org/wiki/Phidias
https://en.wikipedia.org/wiki/Phidias#/media/File:Statue_of_Zeus.jpg 作品(複製品のみ)
ミュロン(Myron。活動時期がBC480~440年)。アッチカ地方出身、アテナイで活躍
https://en.wikipedia.org/wiki/Myron
https://en.wikipedia.org/wiki/Myron#/media/File:Fotothek_df_roe-neg_0006539_030_Eine_Kopie_des_Diskobolos_im_Park_von_Markkleebe.jpg 作品
プラクシテレス(Praxiteles。生没BC4世紀)アッチカ地方出身、アテナイで活躍
https://en.wikipedia.org/wiki/Praxiteles
https://en.wikipedia.org/wiki/Praxiteles#/media/File:Hermes_di_Prassitele,_at_Olimpia,_front_2.jpg

 で、アテナイ式彫刻が古代エジプト式彫刻と共に、古代世界では傑出していること、しかし、アテナイ式彫刻が(理想化されてはいるが)写実的である点で世界で初めてであること、について、下掲を参照して認識してください。↓

 「ギリシャの彫刻が、エジプトの彫像にヒントを得て始められたものかもしれない、という説<がある。>・・・
 像を作る文明は意外に少なくて、それも写実的である程度以上の芸術レベルに達するような立体像となると、「加工しやすい材料が豊富に手に入る」「像を保存するスペースがある」「定住生活をしている」「生活が安定しており、像をつくらせる権力者を有する階級社会である」など、いくつかの条件が重ならなければ生まれない。
 像といっても、小さなお守り程度のものや、簡略化されたものしか持っていない文明も多い。
 数からしても、質からしても、ギリシャとエジプトの立体像へのコダワリは突出している・・・。
 さて、そんな二つの文明だが、像の目指した方向性が違っていた・・・。
 ギリシャというと、・・・ムキムキマッチョマンが基本である。
 エジプト・・・といえば、簡素でスレンダーな・・・感じ。(注14)

 (注14)胸像だが、最も有名なのはネフェルティティの像。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%81%AE%E8%83%B8%E5%83%8F
 全身像の典型的なもの。
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/000/684/98/N000/000/006/133354762562313221675_egypt.jpg

 これは、双方これで芸術として様式が完成している。
 どちらも文明も、像は「理想」を投影している。
 ギリシャの理想は男性的な力を表現する肉体美なのだ。
 対して、エジプトのほうは肉体的な力強さを重要視しない。
 兵役<に>つくのは身分の低い者、書記や神官のような学がある職業のほうが上、というのが社会の風潮だったから、筋肉描写が発達しなかったのだと思う。
 また、喜怒哀楽を表情やポーズで表現するギリシャ彫刻に比べ、エジプトのものは伝統的な表現に則り、決められたポーズしか取らないため動きに乏しいように見える。
 これも方向性の違いであって、どちらかが技術的に劣っているわけではない。
 ギリシャ彫刻の表現はおそらく「一瞬」の時をとらえた現実の生ある姿であり、エジプトの彫刻は「永遠」に続く死後の世界を願った死後の姿、または死後も像に託して生き続ける魂の姿なのだ。
 刻々と変化する生の像は躍動感に満ち溢れているが、永遠を表現した像のほうは動きがなく、しかし安定して見える。その違いだろう。
 同じ「像」に重きを置いた文明であっても、目指した方向は、ほぼ真逆だったと言えるかもしれない。
https://55096962.at.webry.info/201204/article_6.html
 「ギリシア人は、芸術の追究にとって人間の姿形が最も重要な主題であると、ごく早期に決定した。
 彼らの神々が人間の姿形になっていることを見ても、芸術において聖なるものと世俗的なものの区別はほとんどなく、ヒトの肉体は世俗的かつ神聖なものだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%BD%AB%E5%88%BB

 人間の鍛えられた外形は神(注15)の外形そのものである、とするこの古典ギリシャの思想を理想化された形でもって表象したところの、アテナイの彫刻が、インド亜大陸北部で仏教と結びつくことによって、仏像が生まれた(注16)のですが、この瞬間、アテナイ式彫刻は、神の外形を表象したものから、悟った者、すなわち、仏、の内面(人間主義性)を表象したものへと転換され、この仏像の威力でもって、大乗仏教は北伝を果たすのです。

 (注15)「古代ギリシアの宗教は多神教である。神々には序列があり、主神ゼウスが他の全ての神々を支配する王とされた。古代ギリシア世界には、預言者も、教典も、教会も存在せず、神からの啓示もなかった。・・・少なくともアッティカに関していえば、権威的な聖職者も存在しなかったと考えられる。神託を伺うことも、それを解釈して実行するのも・・・民会の役割であった。年に1度行われる宗教祭儀の内容について把握する専門家の集団があったと考えることはできるが、これも権威的な集団ではなく、神官も、神々と人間の仲介者というよりは、聖財の管理や儀式の適切な遂行を管理する<だけの>職業<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99
 (注16)ガンダーラの仏立像。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gandhara_Buddha_(tnm).jpeg
 断食するシッダールタ。
https://4travel.jp/travelogue/10882660

 しかし、仏像発祥地のインド亜大陸北部においても、支那(注17)においても、人間主義者は殆ど存在していなかったので、インド亜大陸北部における大乗仏教の生誕・普及も、北伝先の、支那、朝鮮半島、ベトナムへの仏教の伝播は、仏像の、人間を写実的に形象化した部分の迫力、のおかげでなされた(注18)のに対し、北伝先のうち、例外的に大部分の人が人間主義者であったところの日本への仏教の伝来(注19)は、仏像の本来の意図を、直感的ではあっても正しく受け止められる形でなされた、というのが私の仮説です。

 (注17)雲岡石窟第20窟主尊(北魏時代・5世紀)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gandhara_Buddha_(tnm).jpeg
 (注18)「中国地域への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。・・・
 恐らく、シルクロードを往来する商人が仏像を持ち込み、それから民衆の間に徐々に仏教が浸透していったものと推定される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
 (注19)「現在では・・・538年・・・に<日本に>仏教が伝えられたと考える人が多い・・・
 天皇は<蘇我>稲目に仏像と経論他を下げ与えた。稲目は私邸を寺として仏像を拝んだ。その後、疫病が流行ると、尾輿らは、外国から来た神(仏)<(仏像!)>を拝んだので、国津神の怒りを買ったのだ・・・として、寺を焼き仏像を難波の掘江に捨てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
 「三宝<について、>・・・大乗仏教においては、悟りの体現者である「仏」(釈迦、如来など)、仏の説いた教えを集大成した「法」、法を学ぶ仏弟子の集団である「僧伽」、といった理解がもっとも一般的である。ほかに、「仏」を仏像、「法」を経巻、「僧」を出家者、と捉える理解もある。
 ・・・仏教においては三宝に対する「帰依」(拠り所にするという意味)が強調される。・・・
 聖徳太子が制定したと言われる「十七条憲法」には、第二番目の条項に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」という文言がみられる。」
https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E4%B8%89%E5%AE%9D_%E4%B8%89%E5%AE%9D%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81

 それが故に、日本では、「仏」は仏像と解され、仏法僧の順序からして、この3つの中で最も尊崇された、と、私は見ており、聖徳太子はまさにそう考えていた、とも見ている次第です。

 だからこそ、仏像の最高傑作も高僧の彫刻の最高傑作も、日本にあるのだ、と。
 前者が、広隆寺の弥勒菩薩半跏像
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%9A%86%E5%AF%BA
であり、後者が、唐招提寺の鑑真和上像です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E6%8B%9B%E6%8F%90%E5%AF%BA

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[支那の彫刻]

 「・・・殷・周・春秋・戦国時代は・・・彫刻はさほど重視されてはいない・・・。秦・漢時代になると陵墓,祠堂を荘厳するための丸彫や浮彫の彫刻が多数造られ<た>・・・。六朝時代には仏教美術が栄えて,仏像彫刻が盛況を示し,石窟寺院の石像や塑像,平地寺院の木像や銅像などが造られた。その様式はインド彫刻の模倣に始り,次第に<支那>独自のものが展開していった。隋・唐時代は仏像彫刻の完成期で,銅,塑,木,石,乾漆などいろいろの材質が用いられ,数量も膨大なものとなり,インド<仏像>彫刻を高めた理想的な様式が発達した。宋,元,明,清の時代には仏教美術の衰退とともに彫刻界も不振とな<った。>・・・」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%BD%AB%E5%88%BB-97204
 「秦・・・時代に<おける、>陵墓,祠堂を荘厳するための丸彫や浮彫の彫刻」として最も有名なのが、始皇帝の兵馬俑だが、「身を守る軍隊だけでなく宮殿のレプリカや、文官や芸人等の俑も発掘されている。そのため、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたと考えられている。・・・。漢代以降も兵馬俑は作られたが、その形状はより小型化し、意匠も単純化されたものとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B5%E9%A6%AC%E4%BF%91

 すなわち、仏像(仏教)伝来より前の支那の彫刻は、アテナイ彫刻やインド北部の仏像彫刻、とは違って、思想性を帯びておらず、単なる、「陵墓や祠堂の主たる人のこの世における実用品たる」ヒトやモノのレプリカでしかない。
 (この伝で行くと、古代エジプト彫刻は、「あの世に行ってからの」ヒトやモノの姿を想像したもの、ということになろうか。)
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 だからこそ、仏教は、北伝先の中で、支那では滅び、朝鮮半島(注20)とベトナムでは殆ど滅び、日本でのみ殆ど無傷で生き残ったのだ、と。

 (注20)石窟庵如来坐像(新羅統一時代・8世紀)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%83%8F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Seokguram_Buddha.JPG

 その間、仏教は、日本における人間主義の喪失、つまりは、日本文明の消滅、を、二度にわたって回避させる、という世界史的役割を果たしたのです。
 すなわち、私の言う、第一次弥生モードの初期において、日本人の平均寿命が最短になってしまった(コラム#10617)ことが端的に示しているように、日本国内は極度の混乱状態に陥っており、人間主義が喪われる危機に直面しました。
 その時、仏像のおかげで、形の上でとはいえ、仏教が日本に伝来し定着していたことが功を奏し、仏教の経典類から窺われる、釈迦の言行が、日本で初めて真の意味で注目されるに至り、臨済宗(但し、日本のそれ)と曹洞宗は、支那の禅宗で悟り(人間主義化)の手段として提唱されていた座禅に注目し、それを日本人達の鈍磨した人間主義の活性化をもたらす手段と見て、それぞれ、人間主義的な人や環境との明示黙示の対話たる公案禅なる座禅、サマタ瞑想なる座禅、を、日本の、主として武士達の間に広め、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B8%88%E5%AE%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%B4%9E%E5%AE%97
日蓮宗は、法華経が勧めるところの人間主義的実践、が、やはり、日本人達の鈍磨した人間主義の活性化を連鎖的にもたらすことに注目し、これを主として庶民の間に広め、これによって、日本は、人間主義を喪失しかねない危機を克服することができたのです。
 (座禅を最重視した臨済宗や曹洞宗では、仏像は二の次でした
https://butudan-ec.minrevi.jp/knowledge/shuha-rinzaishu/
https://butudan-ec.minrevi.jp/knowledge/shuha-soutoushu/
し、日蓮宗では、題目を唱えることと、(対人、対自然の)人間主義的実践が再重視され、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97
「庶民にとって高価な仏像を祀ることは困難であ<るとして>、日蓮は諸尊を書いた十界曼荼羅<(注21)>を庶民に与えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%9D%E5%B0%8A
ところです。

 (注21)「十界曼荼羅<は、>・・・法華経後半十四品(本門)に登場する、如来、菩薩、明王、天などを漢字や梵字で書き表した文字曼荼羅」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85

 なお、浄土宗/浄土真宗については、念仏(南無阿弥陀仏)さえ唱えれば、自己の鈍磨した人間主義の活性化、や、人間主義的実践、といった「自力」なくして救われる、と主張した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97
ことで、いわば、仏教を否定してしまい、その結果として、戦国時代に、一向一揆の形で、自らが紛争を起こしたり深刻化させたりして世の中を非人間主義化するのに一役買ってしまったことから、私は、全く、評価していません。)
 具体的には、禅宗が第一次弥生モードの時代に(鎌倉時代は将軍家・得宗家、室町時代は将軍家が、再興の事実上の勧進元となって)かかる役割を果たし、日蓮宗が第二次弥生モードの時代・・史上初めて日本が長期にわたって海外に軍事に進出する運びとなった・・に(島津斉彬が事実上の勧進元となって)かかる役割を果たしたのです。

3 結論

 結論は、次の通りです。↓

 普遍性ある文明には三つあり、古典ギリシャ文明とアングロサクソン文明と日本文明、がそうだ。
 (ご承知のように、現存しているのは、後の方の二つの文明だけだ。)
一、古典ギリシャ文明なるものの実態はアテナイ文明であって、その最大の普遍的意義は、直接民主制の樹立に伴う古代科学の創出と思想性を帯びた写実的彫刻の創出だった、
二、アングロサクソン文明の最大の普遍的意義は、ゲルマン人由来の個人主義文化を保持し続けたことの賜物である、(古代科学の存在のおかげで時期が前倒しされた可能性があるところの)近代科学の創出だった、
三、日本文明の最大の普遍的意義は、アテナイ彫刻と習合していたおかげで伝来した仏教が定着し、後に、仏教中の人間主義活性化に係る諸部分を活用できたこともあって、その基調たる人間主義を成功裏に持続することができたところの、唯一の人間主義文明たりえたことだった。
 なお、以上から分かるように、古典ギリシャ文明によって裨益したと言い切れる文明は日本文明だけであって、アングロサクソン文明は裨益した可能性があるにとどまり、プロト欧州文明/欧州文明等のその他の諸文明は何ら裨益していない。
 また、プロト欧州文明/欧州文明や日本文明、を含む、アングロサクソン文明以外の全ての現存諸文明は、アングロサクソン文明によって裨益している。
 (欧州文明も近代音楽を創出した点だけにおいては普遍的意義があった(コラム#省略)ことに注意。)
 すなわち、サンソムの、「アジアの諸文明とヨーロッパ文明には、後者だけがギリシャ古典文明を継受していることから、根本的な違いがある、という巨視的見解」は、あらゆる意味で誤りなのだ。

(「その2」へ続く)
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太田述正コラム#10646(2019.6.29)
<2019.6.29東京オフ会次第(その1)>

→非公開