太田述正コラム#10489(2019.4.12)
<ディビット・バーガミニ『天皇の陰謀』を読む(その30)>(2019.6.30公開)
第二十五章 近衛の最後の機会 (1941)
紹介すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_60_25_1.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_60_26_2.htm
第七部 世界終末戦争
第二十七章 南進 (1941-1942)
紹介すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_27_1.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_27_2.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_27_3.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_27_4.htm
第二十八章 崩壊する帝国 (1942-1944)
紹介すべき部分はありませんでした。↓
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_28_1.htm
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_28_2.htm
・・・捕虜を最後の者となるまで、次第しだいに、執拗かつまことしやかに、そしてほぼ合法的に皆殺しすることが本国による政策的なものであった・・・
ビルマ・タイ鉄道・・・の事業は一つの特異な意味をもつにすぎなかった。すなわち、東条首相や他の日本政府の責任ある高官に正当化を与える、捕虜を殺すための方法であった。・・・
ユダヤ人以外であっても、日本の収容所はドイツのものより、いっそう死者数が多かった。ドイツ軍によって捕虜となった235,473名の英国および米国の将兵のうち、9,348名――4パーセント――が、ナチの収容所で死亡した。これに対し、日本軍によって捕虜となった95,134名の英国、米国、オーストラリア、カナダ、そしてニュージーランドの将兵の内、27,256名――28.65パーセント――が日本の収容所で死亡した。・・・
https://retirementaustralia.net/old/rk_tr_emperor_70_28_3.htm
⇒「東京裁判は判決で、日本の捕虜になったアメリカ・イギリス連邦の兵士132,134人のうち35,756人(約27%)が死亡したと指摘している。安全な日本本土の収容所に限れば、大船収容所で死亡者は8人(0.8-1.6%)だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8D%95%E8%99%9C
というのですから、「捕虜を最後の者となるまで、次第しだいに、執拗かつまことしやかに、そしてほぼ合法的に皆殺しすることが<日本>による政策的なものであった」とは到底言えないでしょう。
また、泰緬鉄道関係については、「連合軍の捕虜約6万2千人~6万5千人とされる<が、>・・・建設期間中に、約1万6千人の連合軍の捕虜が、飢餓と疾病と虐待のために死亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E7%B7%AC%E9%89%84%E9%81%93%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%8D%95%E8%99%9C%E8%99%90%E5%BE%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6
というのですから、母数の少ない方を採ると、死亡率は25.81%となり、米英軍捕虜全体の死亡率とほぼ一致していることから、泰緬鉄道関係が全体の縮図であると言ってよさそうであるところ、「食料不足からくる栄養失調とコレラやマラリアにかかって死者数が莫大な数に上<った上、>・・・<鉄道>完成後は連合軍の爆撃機により空爆が行われ<たが>、・・・捕虜収容所は橋から近かったため、連合軍の爆撃で外れた爆弾が多々落ちてきて、多数の死者が出た。・・・<また、>捕虜の輸送には赤十字の標識がされていない輸送船(いわゆるヘルシップ)が使用されたため、こちらも連合国軍の潜水艦の襲撃により大きな死者が出た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E7%B7%AC%E9%89%84%E9%81%93
というのですから、死者のうちの相当部分が、連合軍によるものであった、と言えそうです。
(泰緬鉄道建設捕虜虐待事件のウィキペディアがそのことに言及していない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E7%B7%AC%E9%89%84%E9%81%93%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%8D%95%E8%99%9C%E8%99%90%E5%BE%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6 前掲
のは不思議です。)
しかし、それでもなお、捕虜の死亡率は、アジア人労働者の死亡率の最大推定値の35%・・「アジア人労働者・・・動員数・・・が約20万人~30万人・・・死亡数は・・・約4万人~7万人と推定されている」(上掲)・・を大きく下回っています。
アジア人労働者を「ほぼ合法的に皆殺しすることが<日本>による政策的なものであった」などという主張が馬鹿げている以上にバーガミニの主張は馬鹿げている、ということです。
ちなみに、「泰緬鉄道<は、>・・・戦時中の1942年、旧日本軍は海上輸送の危険を避け、またビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するために建設を開始し・・・1943年10月に完成し<たが、>・・・1944年3月に開始されたインド国民軍と日本軍協同のインパール作戦に重要な役割を担った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E7%B7%AC%E9%89%84%E9%81%93
ところです。
客観的に見れば、少なくとも泰緬鉄道建設に関して言えば、連合国のアジア植民地統治という原罪を贖うために、捕虜達は犠牲になったのであり、もって瞑すべきでしょう。(太田)
(続く)