太田述正コラム#844(2005.8.31)
<郵政解散の意味(補論)(続x2)>
(4)結論
久方ぶりにこのような分野の論考にあたってみると、相変わらず、実証研究が断片的なものにとどまっていることと、理論化(数理経済学的理論化を含む)が不十分である観が拭えません。日本の社会科学者の奮起を促したいと思います。
ともあれ、この問題の本質はそうむつかしいものではありません。
特定の、あるいはすべての財・サービス・ヒト・カネ・情報に関し、市場の失敗が存在する場合、あるいは市場がまだ十分成立していない(市場が未成熟である)場合、経済主体は財・サービス・ヒト・カネ・情報の調達に当たって市場以外の手段を採用するほかないわけですが、その場合、組織を採用する方法と、市場でも組織でもない第三の形態を採用する方法があります。
この第三の形態は、中間組織と呼ばれることが多いようですが、私はかつて多傘分散メカニズムと呼んだことがあります(太田述正「「日本型経済体制」論 ――「政府介入」と「自由競争」の新しいバランス」(「日本の産業5 産業社会と日本人」筑摩書房1980年6月に収録)。コラム#40、42、43参照)。
組織もまた、大きくなればなるほど弊害が出てくることが多い(=組織の失敗が生じる)わけですが、中間組織の採用は、市場の失敗ないし未成熟を踏まえつつ、同時に組織の失敗をも回避するという、虫の良い方法であると言えるでしょう。
ただし、中間組織を採用するにあたっては、前提条件があります。
それは、経済主体と、その経済主体の依頼を受けて財・サービス・ヒト・カネ・情報の調達に当たる中間組織とが、目的意識(objective function)及び価値観(効用関数(utility function)とリスク選好(risk preference)からなる)を共有していなければならない、という点です。
理念型的に申し上げると、米国では、経済主体が中間組織との間で目的意識及び価値観を共有するためのコストが大き過ぎるため、もっぱら組織が採用されるのに対し、日本では、コストが比較的小さいため、(組織が採用される場合もないわけではありませんが、)中間組織が採用される場合が多いのです(注6)。
(注6)長期雇用システムは、経営者(経済主体)にとって必要な要員が、外部の労働市場からではなく、中間組織たる従業員集団(内部労働市場)からリクルートされるシステムであるし、ケイレツは、企業(経済主体)にとって必要な部品等が、市場からではなく、中間組織たる系列企業群から調達されるシステムだ。
しかも、日本型政治経済体制下においてのみならず、日本型政治経済体制からなし崩し的にアングロサクソン的政治経済体制に移行しつつある現在においても、この日米間の違いが依然基本的に維持されていることをわれわれは見てきました。
そこで結論ですが、私は、日本が目指すアングロサクソン的政治経済体制に係る制度は、このような中間組織を活用こそすれ、その存立を不可能にするようなものであってはならない、と考えているのです。
4 長銀の「処理」
日本型政治経済体制の下では、開銀・輸銀等の政府系金融機関、興銀・長銀等の長期信用銀行、そして一般の銀行は、大蔵省・日銀という金融当局からみれば、金融政策を実施するための中間組織であり、一般の銀行すら、純粋な営利企業ではありませんでした。経営の自由度に著しい制約が課されていたわけです。ですから、興銀・長銀や一般銀行がおしなべて不良資産を抱えることになったのも、もとはと言えば金融当局の責任です。ところが政府は、不良資産を抱えたままのこれら銀行を、突然純粋な営利企業として放り出してしまったのです。
その結果、日債銀や長銀がつぶれたわけですが、長銀をつぶしたのがとりわけ惜しいと思うのは、当時の日本で唯一機能していた公共的シンクタンクとしての長銀をつぶしてしまったからです。
竹内・日下両名の活躍は、ご本人達が優れた資質を有することは否定しませんが、長銀だからこそ、御両名を始めとする多数の人材が輩出したのだ、と私は考えています。(より規模が大きく、資質の優れた人々もより多くいたはずの興銀は、著名な研究者を生み出していません。)
いずれにせよ、機能している組織というものは、シナジー効果によって、それを構成する個々人の能力の総和を超える存在となることを、お忘れなく。
5 失われた10(余)年の原因
経済学者自身が、日本の失われた10(余)年の原因について、経済学は解明できていない、と認めています(http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/colCh.cfm?i=t_harada02。2004年7月2日アクセス)。
この期に及んで解明できていない、というのですから、原因は経済外に求めざるを得ないのではないでしょうか。
問題は、原因は経済外の何だったのか、ということです。
私は、「米国の要求に従って、過早に、他律的にかつ非体系的に政治経済のアングロサクソン化を実施したためにもたらされた」と主張したのに対し、私有自楽さんは、「米国は適切な助言をし続けてくれていた<にもかかわらず、>省益は考えても・・民のことは念頭にない・・当時の橋本総理大臣と三重野日銀総裁・・<らの>人々<が>・・その助言を曲解し、最も愚かな決してやってはいけない政策を実施した」からだ、と主張されています。
私が、米国がワルだったからだと主張しているのに対し、私有自楽さんは、米国は善意だったけれど日本の当局者達がアホだったからだ、という対蹠的な主張をされている、とお思いですか。
実は私は援軍を得た思いをしています。
と言うのは実のところ、私有自楽さんは、私と同じことを言っておられるからです。
米国は自分の国益に基づいて日本に要求をぶつけたところ、米国の保護国たる日本には国益概念がない・・何が「民」のために良いかを判断する基準を持たない・・ために、「過早に、他律的にかつ非体系的に」米国の要求を受け入れ、その結果、失われた10(余)年がもたらされた、と言い換えれば、両者の主張が同じであることがお分かりになるでしょうか。
しかし、一体どうして私有自楽さんは、私の主張を誤解されたのでしょうか。
それは、当時の日本の当局者達と同様、大変失礼ながら私有自楽さんご自身も、重症の保護国住民症候群に罹っておられるからなのです。