太田述正コラム#10512(2019.4.23)
<映画評論56:ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男(その3)>(2019.7.12公開)

 (3)ジョージ6世

 兄エドワード8世のシンプソン夫人との結婚を認め退位に反対したチャーチル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%898%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E7%8E%8B)
への不快感(A-2)等からその首相就任に余り乗り気ではなかった、英国王のジョージ6世は、就任後のチャーチルとは意気投合して、いわば、二人三脚で先の大戦を戦うこととなった(A-2)のですが、彼は・・権力を有していたわけではないのでどうでもいいのかもしれませんが、・・文字通りの劣等生でした。↓

 彼は、「海軍[幼年]学校に入学し・・・卒業試験で最下等の成績だったが、<その身分に基づく特別扱いで(太田)>そのまま・・・海軍〈兵学校〉へと進学している。・・・
 1919年10月にケンブリッジ大学・・・に入学し、<お客さんとして(太田)>歴史学、経済学、市政学を一年間学んだ。」(B、D([]内)、C(〈〉内)

 彼の吃音(B)だって、その劣等感のせいだった可能性がある、と私は推察しています。
 (更なる蛇足ですが、これほど知的に劣化した英王室への相当程度のテコ入れに成功したのが、将来のジョージ6世の、一目ぼれにによる求婚を2度にわたって拒絶しつつ、3度目の求婚を受け入れたところの、「13歳でオクスフォード・ケンブリッジ・RSA (en:Oxford, Cambridge and RSA Examinations) の資格試験に優等で合格した」ほどの才女、伯爵家の令嬢エリザベスとの結婚
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%BA%EF%BC%9D%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3
でした。)

 (4)イーデン

 以上のような、チャーチル陣営の面々の中で、一見、例外的に知的に秀でていたように見えるのがイーデンです。
 「イーデン準男爵家の息子として生まれ・・・イートン・カレッジ、オックスフォード大学と、エリートコースを歩む。」(L)というのですが、それどころではなく、オックスフォードでは、人も羨む、Double Firstになっています(M)。
 これは、中間試験と最終試験の双方で優の平均点を取ったことを意味します。
 (なお、ケンブリッジでは、二つの専攻の双方で優の平均点を取ったことを意味するので注意する必要があります。)
https://ipfs.io/ipfs/QmXoypizjW3WknFiJnKLwHCnL72vedxjQkDDP1mXWo6uco/wiki/British_undergraduate_degree_classification.html
 しかし、イーデンは、ようやく獲得した首相の座を、下掲のように、自らの不手際によって余りにも無様な形で失い、政界からの引退に追い込まれた、ということが如実に物語っているように、有能であったとは考えにくいものがあります。↓

 「1956年7月26日、エジプト大統領のナセルはスエズ運河を国有化した。これに対し、イーデンはフランス・イスラエルとの協力のもと、エジプトを攻撃する準備を進め、10月29日に秘密の取り決め通りイスラエルがシナイ半島を攻撃した。
 イーデンらはこの頃、ソ連はハンガリー動乱を鎮圧するためハンガリーに軍を派遣しており、アメリカでは大統領選挙のため中東に注意を払うことはないと推測していた。
 しかし、結局米ソの批判と国連の制裁を示唆されることになり、国連緊急総会では即時停戦の要求が決議された。こうして英仏はスエズ運河会社の喪失のみならず、エジプトに存在した他の資産も国有化され、西欧諸国による植民地主義の実質的敗退の事実だけが残された。 ・・・
 イーデンのスエズ危機対処の失敗は、その利権の喪失に加え莫大な戦費の支出からポンド下落を招いて経済力の低下を招くなど、大英帝国の凋落を招く直接的な原因になった・・・。」(L)

 実際、彼は、大衆人気こそあったものの、同時代の、英米の有力政治家達は、一様にイーデンを無能視していました。(M)
 謎解きはむつかしくありません。
 イーデンは子供の頃から、夏季休暇等を欧州で過ごしたのですが、語学の才能はあったのでしょう、フランス語やドイツ語をネイティブ並みにしゃべれるようになっていたらしく、早くから、政治家になる夢を持っていた彼(M)は、学業成績では平凡だったイートン時代を経て、オックスフォードに入ってから、恐らくは、政治家業にあたっても箔付けとなるところのDouble Firstを目指し、(志望者の恐らくは少ないこともあって、自身の語学の才能を生かして)高得点を取り易いペルシャ語とアラビア語を専攻し、まんまとその目的を達した、ということなのだと思うのです。
 彼は、また、大学に入る前から、第一次世界大戦に志願して将校として従軍し、大学に入ってからも招集に応じていますが、これも、(相当のリスクを伴うけれど、)政治家になるための布石でしょう。
 そして、政治家になってからも、英語以外が碌にしゃべれない大部分の英政治家達の中で、語学力をウリにした、と私は想像しているのですが、外相ポストを目指し、3度も外相を務める(M)形で、大願を成就させるのです。

(続く)