太田述正コラム#10522(2019.4.28)
<映画評論59:ヒトラー ~最期の12日間(その2)>(2019.7.17公開)
全く「ホロコーストが登場しない」のが、実は副主人公のトラウデル・ユンゲ・・映画の中のユンゲではなく、この映画が公開された2004年にはまだ存命であったユンゲ本人・・による証言、です。
映画では、まず、本編に入る前に、ユンゲ本人による、「若い頃の自分を諌めたい。何も知らなかったから許されるということはないのだから」という語りを入れ(α)、また、本編が終わってから、またもやユンゲ本人による以下のような語りを入れています。↓
「異なった諸人種と諸信条(creeds)を代表するところの、600万人のユダヤ人達、及びその他の多くの人々、の運命に係るところの、ニュルンベルク諸裁判の関連で私が耳にした、身の毛のよだつ諸事については、もちろん、私に大いなる衝撃を与えたけれど、当時は、これらの諸事と私自身の過去との間に何の関係も見出すことができなかった。
私は、自分がこれらの諸事について個人的に罪がなく、私がこれら諸事のひどさ(scale)に気付くことがなかった、ことがただただうれしかったものだ。
ところが、ある日、私は、(ミュンヘンの)フランツ・ヨーゼフ通りの、ゾフィー・ショールを祈念する銘板の前を通った。
その銘板には、彼女が、私が生まれたのと同じ年に生まれ、私がヒトラーの仕事をするようになったのと同じ年に処刑された、ということが記されていた。
その瞬間、私がまだ若かったことが何の言い訳にもならないことを、私は心底から自覚したのだ。
せめて私は、何が行われていたかを見つけようとすべきだった、と。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Traudl_Junge
これらは重大な証言です。
というのも、その当時は結婚前だったので、正しくはユンゲではなく旧姓でしたが、彼女は、1942年11月に、東プロイセンの通称「狼の巣」(注1)にいたヒトラーによって私的秘書に採用され、ヒトラーが自殺する1945年4月末までの約2年半(上掲)、ヒトラーの指示等の多くの筆記ないしタイプを担当していたところ、そんな彼女が、ホロコースト(注2)がらみの、ヒトラーの指示を筆記・タイプさせられた、或いは、公的秘書等から伝え聞いたヒトラーの過去及び当時の発言の、記憶がない、というのですから・・。
(注1)ヴォルフスシャンツェ (Wolfsschanze) とは、第二次世界大戦で東部戦線のドイツ国防軍の作戦行動を指導するため、アドルフ・ヒトラーが設けた指揮所である。また、第二次世界大戦中に各地に設けられた総統大本営の一つである。名称はドイツ語で「狼の砦」を意味するが、日本では英語の “The Wolf’s Lair” の重訳である狼の巣という名称もよく知られている。・・・建設された場所は、東プロイセン州のラステンブルク(現:ポーランド領ケントシン)の東約8kmの森林の中である。・・・ソ連侵攻開始の2日後の1941年6月24日にヒトラーはベルリンよりこの地へ移ったが、工事は一部進行中であった。ヒトラーが1944年11月20日にこの地を去るまでの間、総統大本営の機能はこの地に置かれた。ヒトラーはオーバーザルツベルクのベルクホーフに滞在する以外のほとんどをこの地で過ごした。・・・アドルフ・ヒトラーの「アドルフ」は古高ドイツ語の “adal(高貴な)” と “wolf(狼)” に語源があるという。ヒトラーは1920年代よりお忍びで動く場合に偽名として “Wolf(狼)” を使用し、親しい仲間に “Herr Wolf”・・・と呼ばせていた。彼は大戦中、ヴォルフスシャンツェ以外にも<欧州>各地に総統大本営を建設したが、その名称のいくつかは・・・ Wolf(ヴォルフ)を含んでいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7
(注2)独ソ戦初期(1941年6月~)における組織的殺戮・・進撃するドイツ軍に追随してハイドリッヒの国家保安本部の移動特別部隊(アインザッツグルッペン)が戦線後方の占領地域に展開し、時には現地のラトヴィア人・リトアニア人・ベラルーシ人の協力を得て、ユダヤ人住民を組織的に殺戮した。・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88(※)
、や、(狭義の)ホロコースト(ラインハルト作戦=ユダヤ人達を強制収容所に送り込み、労働不適者は即殺害し、労働適者は過酷労働をさせて不適化した時点で殺害する)(準備開始:1941年10月。実行:1942年3月~)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BD%9C%E6%88%A6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%BC 及び、※
問題は、ユンゲが本当のことを証言しているかどうかです。
英語ウィキペディアには出てきませんが、邦語ウィキペディアには、典拠抜きで下掲の記述が出てきます。↓
「トラウデル・ユンゲの父は積極的なナチス協力者であり、また、彼女の夫ハンス・ヘルマン・ユンゲは親衛隊将校であったが、・・・これらの点は彼女の証言の中立性に疑問を生じさせるものである。」(α)
しかし、これは言いがかりというものです。
(続く)