太田述正コラム#10528(2019.5.1)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その12)>(2019.7.20公開)
こうした東西の文明的対立の図式–西が東を位置づけるオリエンタリズムの図式–が形を変えて、東にあって西に位置づけられることを求める日本が近隣の東の文明圏を植民地化することを正当化する要因となっていきます。
⇒「我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり」という有名な一節が出て来る、福澤諭吉の「脱亜論」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96
についての、丸山眞男直伝の誤解、曲解ではまさかないと思いたいところですが、いずれにせよ、三谷は、自分がこのくだりの典拠としたものが何であるのかを明らかにすべきでした。
そんな典拠は、少なくとも、まともなものは存在しないはずですが・・。(太田)
日本による植民地化の発端となった日清戦争は、政府当局者や先進的な知識人たちによって東の「野蛮」に対する西の「文明」の対決として意味づけられていました。
⇒ここでも、もう一度、同じ指摘を繰り返しておきたいと思います。
その上でですが、皮肉なことに、文字通り、日清戦争は、清側から、そのようなものと認識されていました。
茂木敏夫『変容する近代東<亜>の国際秩序』(1997年)によれば、「清・朝間の宗主・藩属(宗藩)関係(「宗属関係」「事大関係」ともいわれ、内政外交で朝鮮の自主が認められていた。)を近代的な宗主国と植民地の関係に改め、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした」ものとして・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89
すなわち、清は、支那の「東」に位置する「野蛮」な日本・・東夷・・が、「近代」的な欧米的観念によって中華概念を再定義しようとしていたところの、日本の「西」に位置する「文明」の清・・古来「中華」でもある・・に対する、いわば二重の挑戦に対して受けて立ったつもりだったわけです。(太田)
このような図式・・・のイデオロギー性はもちろん明らかですが、しかしそれがまったく客観的意味を欠いた虚偽意識であるとは必ずしもいえません。
バジョットが指摘しているように、「議論による統治」の伝統の有無に着目して東と西とを分けることには、それなりの歴史的根拠があるといってもよいのではないでしょうか。
⇒日本にだって「「議論による統治」の伝統」がある、と、既に十七条憲法に言及したところですが、この際、補記しておきましょう。
鎌倉幕府の評定衆は1225年に出来た合議機関であり、執権を長とし、その他11名で始まっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95%E5%AE%9A%E8%A1%86
その後、「政治的緊張の中で確立された得宗専制体制の下で、・・・北条氏得宗の私的な会議<であった、>・・・寄合衆・・・が持つ政治的な意味が重くなってい<き、>・・・1289年<頃から、>・・・寄合は幕府の公的機関となり、それまで公式な最高決定機関とされた評定衆よりも権威を持つように・・・なった。・・・末期の鎌倉幕府では得宗家の当主すら形骸化し、元弘の乱で滅びるまで・・・<幕府は>寄合衆によって運営されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%84%E5%90%88%E8%A1%86
また、徳川幕府においても、「老中<の>・・・定員は4人から5人で、普段の業務は月番制で毎月1人が担当し、・・・重大な事柄については合議した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%81%E4%B8%AD
ところです。
三谷は、こういったものは「議論による統治」ではないと言うのでしょうか。
一体、彼の頭の中で、「議論による統治」なるものの定義はどうなっているのでしょうね。
4、5人ないし11人程度じゃ、議論参加者が少な過ぎる、とか、議論参加者が誰も選挙で選ばれていない、のがお気に召さないのでしょうか。(太田)
(続く)