太田述正コラム#10534(2019.5.4)
<映画評論60:帰ってきたヒトラー(その2)>(2019.7.23公開)
原作者の「ヴェルメシュ自身は、ヒトラーを単純に悪魔化するだけではその危険性を十分に指摘できないとし、リアルなヒトラー像を表現するためにあえてその優れた面も描き出したと述べている 」(A)ところであり、「その優れた面」が「知能の高さ」なのであれば、そう端的に言うはずなので、彼がそう考えていないことは明らかです。
答えは、英国のジャーナリストのトム・フィリップス(Tom Phillips)が、というか、フィリップスが紹介するところのヒトラーの挿話の中でヒトラー自身が、明らかにしてくれています。↓
「・・・どうして、ドイツの<当時の>選良達は、・・・一貫してヒトラーを過小評価し続けたのだろうか。
恐らくは、ヒトラーの能力についての彼らの<低い>評価は間違ってはいなかったのだろうが、それだけでは彼の大志に前に立ち塞がるには十分でないこと、に気付くことに失敗しただけなのだ。
後で分かったことだが、実際、ヒトラーは政府を運営することに全く長けていなかった。・・・
ヒトラーは信じ難いほど怠惰だった。
彼の補佐官のフリッツ・ヴィーデマン(Fritz Wiedemann)によれば、彼はベルリンにいる時でさえ、11時より後になるまでベッドを離れようとせず、昼食までの間には、ディートリッヒ(Dietrich)によってよってかいがいしく持ってこられた記事群の切り抜きでもって、自分について諸新聞が何と言っているかを読むこと以外には殆ど何もしなかった。
彼は、メディア、と、ちやほやされること、に取り付かれており、そのレンズを通して自分自身を観察していたようにしばしば見えた。
彼は、自分自身を、「欧州で最も偉大な役者(actor)である」と形容し、ある友人に、「私は、自分の人生を世界史の中で最も偉大な小説であると信じている」と書き送った。・・・
ヒトラーに個人的諸欠陥があっても、そんなもので、彼が大衆を魅了する政治的レトリックをひねり出す神秘的な(uncanny)本能を保持していることに対抗することなどできなかったのであり、それほど、有能な、或いは、機能する、政府でなくとも、それがひどい諸事を行いうる、ということが結果的に証明されることになったのだ。・・・
今まで発生したところの、人間が引き起こした最悪の諸出来事の多くは、悪人たる<知的>諸天才の産物ではなかった。
むしろ、それらは、低能達や頭のおかしい者達が、彼らを統制できると考える自信過剰な人々によってその道中を助けられつつ、首尾一貫性のない形でバタバタしながら諸出来事を辿りながら進んで行ったことの産物なのだ。・・・」
https://www.newsweek.com/hitler-incompetent-lazy-nazi-government-clown-show-opinion-1408136
(5月1日アクセス)
要するにこういうことです。
ヒトラー(1889~1945年)は、奇しくも同じ年に生まれたところの、彼と同様に、無学にして(恐らくは知的能力が傑出していたわけではないけれど)、作・演出・演技の、古今東西で最高の天才達のうちの一人であった、チャールズ・チャップリン(1889~1977年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3 ★
を超える、作・演出・演技の超絶天才であった、と、いわば宣言したようなものであり、私自身、全くその通りだと思っているのです。
全ては、フィクションに係る、作・演出・演技、なのですから、ヒトラーのように、その方がウケると思えば、自分のユダヤ人観とは180度異なるユダヤ人観を自分が抱いているかのように、作・演出・演技するようなことがあったのは当然であるわけです。
(あろうことか、そんな、ヒトラーを近親憎悪にも突き動かされつつ(?)打倒しようとして、チャプリンは1940年に『独裁者』を世に問いますが、笑いこそ大いにとれたものの、本来の目的に関しては、蟷螂之斧とさえ言えないほどの敗北で終わっています。(★))
「ユダヤ系アメリカ人向け新聞・前進紙にて、ガブリエル・ローゼンフェルド<が、この映画の原作>を「スラップスティック」でありながら、最終的には道徳的なメッセージにたどり着く作品と評し<つつ、>・・・ヴェルメシュがドイツ人によるナチズムの許容を説明するためにヒトラーを人間的に書いたのであろうと認めつつ、その描写が作品自体のリスクを高めているとして、「(読者は)ヒトラーを笑っているだけではない、彼と共に笑っているのだ」(laugh not merely at Hitler, but also with him.)と書いている」(A)のに準えて言うならば、現在のドイツ人の読者達(や観客達)が、チャップリンの上前をはねた、作・演出・演技者たるヒトラーを笑うと共に、こんなヒトラーの手にかかったら、現在の自分達でも、いともたやすく、ヒトラーの「作品」に夢中になり感動してしまうであろうと想像されるところ、そんな自分達自身を笑っている、というのが私の見解です。
(完)