太田述正コラム#858(2005.9.9)
<ローマ帝国の滅亡(その1)>
1 始めに
以前(コラム#835で)、人口が減少し続けると文明が滅びるとして、その例としてギリシャと並んで(西)ローマ帝国の例を挙げましたが、その後、ローマ帝国西部の人口が、紀元前後から滅亡のしばらく前にかけて大幅に減ったという事実はなく、人口はほとんど変わらなかったとする異説があり、このところこの異説の方が有力になりつつあることを知りました。
例えば、ローマの支配階級の間では、家産の分散を防ぐために、捨て児をして実子を間引く習わしが一般化していたことは事実らしいのですが、これらの捨て児は奴隷市場で売られて「活用」されたことから、このことがローマ全体の人口減を引き起こしたとは考えにくいというのです。
もっとも、人口統計が殆ど残っていないローマ時代の人口を推計することは不可能に近いので、この議論の明快な決着は望むべくもなさそうです(注1)。
(以上、http://www.findarticles.com/p/articles/mi_m0PCG/is_1_21/ai_n6155262/print(9月7日アクセス)による。)
(注1)死亡時の年齢が分かる墓碑銘、墓から発掘される人骨からの歿年の法医学的推定、ローマ領エジプトの散逸を免れた部分的な人口統計、の三つしかローマの人口を推計する手がかりはないが、いずれも偏りのある手がかりであり、ローマ全体の人口及びその推移についてはよく分からない、というのが実態だ。
さて、ローマの滅亡の原因については、上述の人口減少説のほか、ギボン(Edward Gibbon)(注2)の宗教的熱狂(religious zealotry=キリスト教の普及)説、「大国の興亡」の著者ポール・ケネディ(Paul Kennedy)の重税説(=帝国疲弊(imperial overstretch)説)等、無数の説が唱えられてきました。
(注2)1776年から88年にかけて出版された大著「ローマ帝国衰亡論」(The History of the Decline and Fall of the Roman Empire)を著す。
しかし滅亡の原因が何であれ、ローマは大混乱を伴うことなく滅亡したし、滅亡から西欧中世社会の成立に至るまでの過程もまた平穏な変容(transformation)過程であった、とする説が最近有力になってきていました。
ところが今年の夏、ローマ帝国の滅亡をテーマにした本が二冊(注3)、いずれもオックスフォード大学の研究者によって上梓されたところ、その内容が、この平穏滅亡説及び平穏変容説をそれぞれ否定するものであることが話題になっています。
(注3)Peter Heather, THE FALL OF THE ROMAN EMPIRE: A New History, Macmillan、及びBryan Ward-Perkins, THE FALL OF ROME AND THE END OF CIVILISATION, Oxford University Press
以下、このヒーザーの平穏滅亡説批判とパーキンスの平穏変容説批判をかいつまんでご紹介しましょう。
(以下、特に断っていない限り、ヒーザーの本の書評であるhttp://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0195159543/002-8066028-8332024?v=glance、パーキンスの本の書評であるhttp://www.oxbowbooks.com/feature.cfm/FeatureID/199/Location/DBBC?CFID=2506130&CFTOKEN=83085815、http://www.oxbowbooks.com/feature.cfm/FeatureID/199/Location/DBBC?CFID=2506130&CFTOKEN=83085815、http://www.bookpage.com/0508bp/nonfiction/fall_of_rome.html、http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0192805649/002-8066028-8332024?v=glance、この二つの本の書評であるhttp://www.atimes.com/atimes/Front_Page/GI07Aa01.html、http://www.timesonline.co.uk/article/0,,2102-1635117,00.html、http://ccat.sas.upenn.edu/bmcr/2005/2005-07-69.html、http://www.arts.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2005/06/19/bohea19.xml&sSheet=/arts/2005/06/19/botop.html(以上いずれも9月7日アクセス)による。)
2 ヒーザーの平穏滅亡説批判
4世紀の時点のローマは、引き続き繁栄しており人々の堕落や社会の崩壊の徴候はなかった。軍は60万人の兵力を擁して健在であり、税収も十分確保されていた。ゲルマン人は時々ローマ領内に侵攻していたが、支族等に分かれてバラバラであり、脅威というほどの存在ではなかった。それにゲルマン人の一部は傭兵となってローマに貢献していた。
だから、宗教的熱狂説も重税説も人口減少説も誤りだ。
4世紀末の376年にフン族の中欧侵攻が始まると、浮き足だったゲルマン人達はローマ領内に避難したが、ローマ帝国当局のゲルマン人避難民対策は拙劣を極め、混乱が続いた(注5)。やがてこれらゲルマン人難民はローマ領内のガリア・スペイン・イタリア・北アフリカ等で自治領域を形成する。これと平行してローマの税収は落ち、これら自治領域をローマに再統合するために必要な軍隊の確保が困難となり、それに伴い、ローマの権威も失墜し、やむなくローマの地方エリート達はゲルマン人側になびいて行った。やがてフン族がハンガリーに落ち着くと、ローマの人々を結束させる共通の脅威が消滅し、かつまたフン族を傭兵として雇うこともできなくなり、その必然的結果として5世紀後半の476年に(この間の395年に事実上東西に分裂していたローマ帝国のうちの)西ローマ帝国は滅亡に至った(注6)のだ。
(注5)ローマ皇帝ディオクレティアヌス(DiocletianusまたはDiocletian。284?305年)は、一人の皇帝がローマ全土を統治するのは不可能だと考え、285年にローマ東部にもう一人の皇帝を立て、293年には更に西部と東部の北部にそれぞれ準皇帝を立て、四頭制(Tetrarchy)政治を行った。これが、395年のローマ帝国の東西への事実上の分裂の伏線となるとともに、加速度的な分権化の進行、そして首都ローマの空洞化をもたらした。(http://www.roman-emperors.org/dioclet.htm。(9月8日)も参照した。)
これがゲルマン人難民への対策が拙劣を極めた背景だ。
(注6)ゲルマンのスキリア族出身のオドアケル(Odoacer。434??493年)(父親はフンの首長アッティラの宰相)は、西ローマ皇帝の親衛隊に入り、その司令官となり、475年の西ローマ皇帝交替の際にゲルマン人傭兵のためにイタリアの土地を要求して拒否されると、翌476年に皇帝ロムルス・アウグストゥス(Romulus Augustus)を、年金を与えて追放した。その後彼は、東ローマ皇帝から総督の称号を受け、東ゴートに敗れて殺されるまでの間、イタリアとダルマティアを支配した。(http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/tyusei/101-europe1.html(9月8日アクセス)も参照した。)
(続く)