太田述正コラム#10542(2019.5.8)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その16)>(2019.7.27公開)

 ・・・しかし「前近代」の「慣習の支配」を変革する役割を担ったのは、「議論による統治」だけではないというのがバジョットの見解でした。・・・
 たとえば貿易は明らかに異なった慣習や異なった信念をもっている人々を密接な近隣関係に置くのに多大な貢献をした。
 そしてこれらの人々すべての慣習や信念を変えるのを助けた。
 植民地化はもう一つのそのような影響力である。
 植民地化は人々を異質の人種であり、異質の慣習をもつ原住民の間に定住させる。
 それは一般に植民者たちを彼ら自身の文化的要素の選択に過度に厳格にしないようにさせる。
 植民者たちは現地の有用な集団や有用な人々と共生し、それらの文化的要素を「採択」せざるをえない。
 現地民の祖先の慣習は植民者自身のそれと一致していないかもしれないにもかかわらず、否、事実において正反対であるかもしれないにもかかわらず。・・・

⇒下掲囲み記事も参照して欲しいですが、バジョットの主要著書9冊中7冊が普仏戦争より後に上梓されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%88 前掲
ことからも、バジョットの「植民地化」の議論においては、フランス等、欧州文明諸国の事例がもっぱら念頭にあって、海外植民地に対しては北米を除き同化政策をとらなかったところの、アングロサクソン文明は念頭になかったのではないかと思われます。

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[植民地同化政策:フランスの例]

 表記について、面白い記述を見つけたので紹介しておく。↓

 「・・・ダブジ(Pierre DABEZIES)元<仏>ガボン大使は、フランスの植民地政策を次のように表している。「イギリス人は、イギリス人以外でイギリス人のようになりうるということは今まで一度も考えたことはなかった。それ故、植民地に対して同化政策あるいは連帯政策といった終わりのない熟考をすることなく間接支配を行なってきた。その統治方法は、恐らくフランスの「直接統治」より賢明な方法であったろう。それ故、クリケットや紅茶の習慣ばかりでなく、コモンウェルスや議会主義など重要な習慣を残しつつ、如何なる感情もなく、然<ママ(太田)>したる大きな問題もなく、植民地から去っていくことが出来たのである。ところが、フランスは、フランス連合の苦難や枠組み法、フランス共同体の失敗等を経て、旧植民地諸国との関係の維持に腐心した為、植民地化はイギリスのそれより骨を折るものであった。植民地同化政策による部分的に共有された文化の浸透から、その文化を共有するという自尊心とそれを維持していきたいという意思から、一種の家族的な感情が芽生えた。その為、フランスの植民地諸国は全体として独立を要求したが、フランスからの完全な独立を望んだわけではなかった。こうしたことから、フランスとフランス語圏アフリカ諸国との間に例外的な特殊な関係が生まれたのである。」
 このようなフランスの植民地政策は、原住民にその文化、伝統など精神的変化を求めるものだった。イギリスがインドで行なったように、既存の支配階級を取り込み、それを利用して人々を支配するのではなく、フランス人が直接支配するためには、被支配者がフランスに、そしてその共和国的価値に共鳴することが必要だった。
 このような同化政策がフランスの植民地政策のモデルになったのは、第三共和政の下であった。普仏戦争に敗北したフランスはアルザス・ロレーヌを失った。当時政権を握っていた共和派は王党派に対し、海外領土を広げることができることを証明する必要があった。それに対し、王党派は盲目的な領土拡大を批判し、愛国的な詩人デルレード(Paul DEROULEDE)の言葉「私は二人の妹を失った。ところがあなたは二〇人の家政婦を私にくれると言う」を引用し、共和派の政策を批判した。このような批判に対し、共和派は植民地化したフランスの植民地化した人々の心も征服できることを証明しなければならなかった 。つまり、征服したアルジェリア人やセネガル人をフランス人に変えられると説得しなければならなかった。だからこそ、植民地のフランス人の歴史の教師は黒人の生徒に向かって「あなた達の祖先はガリア人である」と教えたのである・・・」
https://www.musashino-u.ac.jp/albums/abm.php?f=abm00000881.pdf&n=%EF%BC%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%EF%BC%BD+%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E6%94%BF%E7%AD%96%E3%81%A8%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%95%8F%E9%A1%8C.pdf

 異民族に対する同化政策について、同化政策の邦語ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8C%E5%8C%96%E6%94%BF%E7%AD%96
で、10番目までをコピペすると以下の通りだ。↓

1.高麗および李氏朝鮮における耽羅民族(耽羅国国民、すなわち現在の済州島島民)に対する同化政策。
2.大航海時代、スペイン・ポルトガルによる中南米先住民族の同化政策。
3.フランス革命以後の国内少数民族(プロヴァンス人、アルザス人、ブルターニュ人など)に対する同化政策。
4.イタリアの南チロルのドイツ系住民に対する同化政策。
5.イタリアの植民地である東アフリカ(エリトリア・ソマリア)、リビアでの同化政策。
6.プロイセン王国における、スラブ系諸民族のドイツ化政策。
7.イギリスのウェールズにおけるウェールズ語撲滅政策。
8.イギリスのアイルランドにおけるアイルランド語撲滅政策。
9.フィリピンにおける諸民族に対するスペイン次いで米国、そしてフィリピン政府による同化政策。
10.開拓時代およびそれ以降における、米国、カナダによる先住民族(インディアン、エスキモー)の同化政策。

 上掲に続く、「11.」~「18.」を含め、フランスの海外植民地が登場しないのは理解に苦しむところであり、記述全体の信頼性に疑問符が付くが、イギリスがウェールズとアイルランドに対して現地語撲滅政策をとったのは間違いではないこと等、一定程度の信頼性はあると判断した。
 (ダブジ(上出)が、イギリスが同化政策を取ったことはない、と断言したのは必ずしも正しくないわけだ。)
 スペイン、ポルトガル、イタリア、すなわち、欧州諸国が、海外植民地に対して、おしなべて同化政策をとったことが分かる。
 それに対して、イギリスは、同化政策を、ウェールズに関しては成功したが、より原住民の人口の多いアイルランドに対しては(アイルランド語撲滅にこそ成功したけれど、結局は)失敗したことも踏まえ、原住民の少ない北米大陸では同化政策をとったけれど、それ以外では、基本的に同化政策をとらなかった、と、私は見ているところだ。
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(続く)