太田述正コラム#10550(2019.5.12)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その18)>(2019.7.31公開)

 ・・・明治憲法下の権力分立制は、米国の上下両院制にも見られる体制原理としての権力分立制の現れであったのです。

⇒三谷は、そう主張する根拠を示すべきでした。
 私は、典拠によって否定されない限り、単純に、イギリスの二院制の継受だと見ているところです。(太田)

 現行憲法の制定過程で日本側は、むしろ占領国側に抗して、貴族院の温存につながる二院制の確保に努めたのです。<(注10)>

 (注10)「1945年10月11日に近衛文麿が内大臣府御用掛に任命され、内大臣府が憲法調査に当たり、調査結果として近衛と佐々木惣一の2つの案が示された。このうち近衛案では 「貴族院ノ名ヲ改メ特議院 (仮称) トシソノ議員ハ衆議院ト異リタル選挙其ノ他ノ方法ニヨリ選任ス」 とされ、近衛が1945年11月22日に奉答した案では貴族院に代わる第二院を「特議院」と仮称している。また、佐々木案では「特議院ハ特議院法ノ定ムル所ニ依リ皇族及特別ノ手続ヲ経テ選任セラレタル議員ヲ以テ組織ス」とされた。 ・・・
 民政局長ホイットニー准将は、1946年2月13日、吉田茂外務大臣及び松本烝治憲法改正担当国務大臣と会見した際、衆議院のみの一院制とする憲法改正案(マッカーサー草案)を提示したが、その場で松本が、一院制では選挙で多数党が変わる度に、前政権が作った法律をすべて変更し政情が安定しないことを指摘し、二院制の検討をホイットニーに約束させている。
 その後、帝国議会と枢密院での議論のために法制局が作成した想定問答集では、「問 一院制を採らず両院制を採る事由如何」「答 一院制を採るときは、いはゆる政党政治の弊害、即ち多数党の横暴、腐敗、党利党略の貫徹等が絶無であるとは保し難いのであって(以下略)」と「政党政治の弊害」を両院制を採る理由としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2
 佐々木惣一(1878~1965年)は、四高・京大、同講師、助教授、教授(行政法。後に憲法も)、1933年(昭和8年)「滝川事件に抗議して辞職・・・大政翼賛会には一貫して反対し、自由保守主義を擁護し続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8%E6%83%A3%E4%B8%80
 松本烝治(1877~1954年)は、一高・東大、農商務省、東大助教授、欧州留学、東大教授(商法)、満鉄理事・副総裁、内閣法制局長官、関西大学学長、斎藤内閣商工大臣、幣原内閣憲法改担当国務大臣、公職追放、弁護士。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E7%83%9D%E6%B2%BB

 その意味で現行憲法下の権力分立制には、明らかに明治憲法下の権力分立制につながる要因があるといえます。・・・

⇒明治憲法下の二院制を権力分立制の一環と見ることにすら留保を付けたいところですが、少なくとも、それを明治憲法下の権力分立制の代表例とすべきではありますまい。
 それはともかく、地域/州/連邦の各構成単位の代表、ないし、(上層)階級の代表、ではない、選出が人口に比例して行われる上院、などという意味・意義不明の立法機関は、日本国憲法制定当時までの間においても、また、その後も現在においても、日本以外には存在したためしがないはずです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%99%A2
 近衛などはどうでもよいとして、そんな機関の設置を推奨したところの、法学者である佐々木も松本も、参議院制度を高く評価しているように見受けられるところの、政治学者である三谷も、いずれも、著名なる学者であるというのに、その名を汚す無責任さであることよ、と言いたくなってしまいます。(太田)

 南原繁<が自分に対し、>・・・福沢諭吉のような人がなぜ明治憲法に対して批判的でなかったのか、自分はかねてから非常に不思議に思っていると語ったことを思い出します<が、>・・・福沢諭吉が明治憲法の出現をそれなりに高く評価していたことは否定できません。・・・
 <この憲法によって、>ウォルター・バジョットのいう「議論による政治」の基礎が造られた、そのように福沢諭吉は受けとめていた<から>です。・・・

⇒どうやら、丸山眞男が抱いていたところの、福澤諭吉に対する(福澤が欧米化主義者であるという)誤解は、彼の師であった南原譲りのものであったようですね。
 欧米化、とりわけ、欧米における最先端の継受、という観点からは明治憲法は極めて不十分なものであったにもかかわらず、どうして欧米化主義者であった福澤が明治憲法を高く評価したのか、南原は理解できなかった、というわけです。
 さすがに、彼らよりはるかに若く、より豊富な史料に接することができた、三谷は、彼らほど愚かたりえなかったのかも、と、(これまで厳しい点をずっとつけてきたけれど、)この点では、彼を少し持ち上げておくことにしましょう。(太田)

(続く)