太田述正コラム#10560(2019.5.17)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その23)>(2019.8.5公開)

 ・・・福沢諭吉の儒教イデオロギー批判と、幕藩体制の実際の政治メカニズムについての評価とは区別して考える必要があるということがいえるのではないでしょうか。・・・

⇒「福沢諭吉の儒教イデオロギー批判」と言われてもピンと来ないので、『福翁自伝』中の余りにも有名な、「門閥制度は親の敵」が出て来る前後を読み返してみました。↓

 「・儒教主義の教育
 夫れから最(も)う一つ之に加えると、私の父は学者であった。普通(あたりまえ)の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋(かじまや)、鴻ノ池(こうのいけ)というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪(たま)らない。・・・
 ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、・・・、最う十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習をするには、倉屋敷の中に手習の師匠があって、其家(そこ)には町家(ちょうか)の小供も来る。其処(そこ)でイロハニホヘトを教えるのは宜(よろ)しいが、大阪の事だから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然(あたりまえ)の話であるが、その事を父が聞て、怪(け)しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云(い)うのは以(もっ)ての外(ほか)だ。斯(こ)う云(い)う処に小供は遣(やっ)て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速(さっそく)取返せと云(いっ)て取返した事がある・・・
 中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立て居て、何百年経たっても一寸(ちょい)とも動かぬと云う有様、家老の家に生れた者は家老になり、足軽の家に生れた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まって居る者も同様、何年経ても一寸とも変化と云うものがない。ソコデ私の父の身になって考えて見れば、到底どんな事をしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲(ここ)に坊主と云うものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったと云うような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると云たのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。
  ・門閥制度は親の敵
 如斯(こん)なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為に門閥制度は親の敵(かたき)で御座る。」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/1864_61590.html

 ご感想は?
 私には、諭吉の父親の百助は、諭吉が1歳の時になくなっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89 ☆
ので、諭吉の頭の中で父親が理想化されていた、というか、諭吉としては、無理やり理想化された形で自伝に父親について書き残しておきたいと思った、としか考えられません。
 そうとでも考えないと、この支離滅裂なくだりの説明ができません。
 どうして支離滅裂か?
 吉田松陰の父親は「石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B8%B8%E9%81%93
というのですが、諭吉の父親は「十三石二人扶持」
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201604-1.html
ですから、「高百石=蔵米取り百俵=現米三十五石=二十人扶持」
http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/houroku.htm
であることから、松陰の父親が26石、諭吉の父親が16.5石または23石で、恐らくは23石だったでしょうから、2人はほぼ同じ程度の貧窮武士であったわけです。
 しかし、そんな家の次男であった松陰でも、彼には兵学者としての傑出した才能があったことから、早くも、「9歳のときに明倫館の兵学師範に就任<し、>11歳のとき<には>、藩主・毛利慶親への御前講義」まで行わせてもらっています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0
 坊主になどならなくとも、学問の道で立身出世することは全然可能だったということです。
 毛利慶親が超偉大な大名で、その上松陰が超天才だったから、起りうべからざることが起った、などという茶々はなし。
 まったー。
 松陰は、「5歳<の時に>・・・藩校明倫館の・・・山鹿流兵学師範の叔父吉田大助の仮養子とな<り、6歳<の時に>・・・吉田大助の急死により吉田家の家督を相続<した>」
https://www.ishin150.jp/ishinandyamaguchi/shouin
から、幼くしてそんな特権が与えられたのだ、これぞ、「門閥制度」そのものじゃないか、という声あり。
 こういった頑固な方々に対しては、伝家の宝刀を抜くしかなさそうですね。↓
 「江戸時代・・・の儒者の出身身分は江戸時代初期には浪人、中期以降には商人・医家が多く、武士以下の階層から出て精神的に武士を指導する地位に立つことができた。また中江藤樹や伊藤仁斎のような在野で儒を説く町儒者が出現し、彼らはしばしば窮乏したものの、出仕せずに大名に儒学を講じ社会的地位を得る者もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E5%AD%A6%E8%80%85
 ですから、諭吉の父親が儒学者として世に出ることができなかったのは、彼が単なる儒学オタクであってさしたる学才がなかったからだ、と断定していいでしょう。
 (現に、彼は、何の著作も残していません。)
 いくら自分にとって、「大坂での勘定方勤番<という、亡くなるまで>十数年に及んだ」(☆)ところの算盤稼業が苦痛だったからといって、子供達への九々教育に目くじらを立てるような儒教原理主義者では、評価されないのが当たり前でしょう。
 そんな父親が自分に授けた「儒教主義の教育」を、諭吉だって、本当のところ、評価していたはずはありません。
 にもかかわらず、そんな意味での「儒教主義」者であった父親を学問の道で立身出世させなかった「門閥制度」・・そのココロは「封建制度」?・・を「親の敵」とまで過激に諭吉は非難しているのですから、これを支離滅裂と言わずして何でしょうか。
 こんなことを言いたくありませんが、三谷は、果たして、直接『福翁自伝』にあたっているのでしょうか?
 ひょっとして、諭吉が「儒教イデオロギー批判」を別の著書等で行っているのかもしれませんが、それなら、というか、いずれにせよ、その個所を三谷は直接引用すべきでした。(太田)

(続く)