太田述正コラム#867(2005.9.16)
<ペルシャ帝国をどう見るか(その1)>
1 始めに
以前(コラム#771で)「イラン人は、今から2,500年以上前の紀元前550年におけるキュロス(Cyrus)による(ペルシャからメソポタミアに至る)アケメネス朝(Achaemenes Dynasty)ペルシャの建国以来、何度もこの地域に覇を唱えたイランの歴史に誇大妄想狂的な誇りを抱いています。」と申し上げたところですが、本当にそれは「誇大妄想狂的な誇り」なのでしょうか。
話をアケメネス朝ペルシャだけに限定しようと思いますが、そのとおり、というのが、英米の人々の伝統的な古代ペルシャ観です。
英国でこのような伝統的古代ペルシャ観に則った迫力あるノンフィクション(Tom Holland, Persian Fire: The First World Empire and the Battle for the West, Little, Brown)が上梓されたかと思ったら、伝統的古代ペルシャ観を180度否定した新しい古代ペルシャ観に則った展覧会(Forgotten Empire: The World of Ancient Persia)が大英博物館で開催され、どちらも大いに英国の朝野を湧かしています。
前者からは、アングロサクソンのホンネの世界観が透けて見えてきますし、後者からは、現在の英国が依然、アングロサクソン世界において、人文科学や国際政治の分野でいかに大きな存在であるかを肌で感じるとることができます。
以下、順次ご説明することにしましょう(注1)。
(注1)このシリーズを通じ、歴史が国際政治や国内政治を理解する手がかりを与えてくれることを理解していただけるとありがたい。
2 伝統的古代ペルシャ観
(1)ペルシャ戦争の概要
紀元前492年から479年にかけて三次にわたってペルシャ帝国とギリシャの諸都市との間で戦われ、ギリシャ側の勝利で幕を下ろしたペルシャ戦争(注2)については、ご存じの方が多いと思います。
(以下、特に断っていない限りhttp://books.guardian.co.uk/reviews/history/0,6121,1566336,00.html(9月11日アクセス)、及びhttp://www.historybookshop.com/book-template.asp?isbn=0316726648、http://enjoyment.independent.co.uk/books/reviews/article309582.ece、http://www.rozanehmagazine.com/SeptOct05/here&thereSeptOct.html、http://www.ramagazine.org.uk/index.php?pid=288、http://enjoyment.independent.co.uk/books/reviews/article310460.ece(いずれも9月14日アクセス)による。)
(注2)前499年にペルシャに支配されていた小アジア半島の西部イオニア(Ionia)地方所在のギリシャ諸都市が叛乱を起こし、これをギリシャの諸都市が支援したことに端を発する。正式な終戦は前449年。(http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q266C200.HTM。9月15日アクセス)
第二次と第三次のペルシャ戦争のさわりの部分は次のとおりです。
ペルシャのダリウス(Darius)王は、前490年、ペルシャ軍25万人をもってギリシャを侵攻させますが、アテネを主力とするギリシャ軍1万800人にマラソン(Marathon)の戦いで敗れ、引き下がります。
10年後の前480年にダリウスの後継者のクセルクセス(Xerxes)王は、自らペルシャ軍25万人を率いてギリシャに侵攻します。テルモピレー(Thermopylae)の陸戦では、奮戦の末、スパルタ王レオニダス(Leonidas)率いるギリシャ軍1300人のうち少なくともレオニダス本人を含むスパルタ軍300人が全滅し、ギリシャ側が敗れますが、アテネはテミストクレス(Themistocles)の指導の下、アテネを引き払い、老人や女子供を除く全員が船に乗り移り、サラミス(Salamis)の海戦でペルシャ海軍を壊滅させ、クセルクセスに撤退を余儀なくさせます。
そして翌前479年、残ったペルシャ陸軍をスパルタ軍が粉砕し、更にギリシャ側の海軍はイオニア地方で反撃に出て現地ペルシャ軍を壊滅させます。
こうしてギリシャ本土への脅威は取り除かれ、イオニアのギリシャ諸都市は解放されたのでした。
(以上、http://www.tabiken.com/history/doc/Q/Q266C200.HTM上掲も参照した。)
(2)ペルシャ戦争の伝統的評価
ア 古典ギリシャ人による評価
ペルシャ戦争の後、余り時間を置かずに書かれた、イオニア地方出身のギリシャ人ヘロドトス(Herodotus of Halicarnassus。前484??425?年)の「歴史(The Histories)」と、自身がサラミス海戦に参加したアテネ人のアイスキュロス(Aeschylus)の悲劇「ペルシャ人(Persians)」(全472年)、の二冊のペルシャ戦争評価は、後々まで欧米におけるペルシャ戦争評価を規定することになります。
ヘロドトスは、ペルシャ人を専制的で贅沢好きで柔弱(effete)で残酷な悪の権化として描きましたし、アイスキュロスは、「ペルシャ人」の中で、クセルクセスの母親に、「ギリシャ人の統率者は誰だ。誰が彼らを指揮しているのだ。」と問わせ、コーラスに「彼らはいかなる者に対しても奴隷として頭を下げることがなく、主人も持たない」と答えさせています。
イ これまでの英国人による評価
このような古典ギリシャ人のペルシャ戦争評価を受け継ぎ、19世紀の英国の哲学者にして経済学者のJ.S.ミル(John Stuart Mill。1806?73年)は、マラソンの戦いは、「英国の歴史においてすら、<1066年にウィリアムによるイギリス征服を決定づけた>ヘースティングの戦いよりも重要だ」と言っています。
ウ ホーランドによる評価
今回、ホーランド(上掲)が次のようにペルシャ戦争を総括したのは、以上のような伝統的なペルシャ戦争評価をより直截的に表現しただけのことだ、とホーランド自身は思っていることでしょう。
ペルシャ戦争でのギリシャの勝利なかりせば、欧州ないし西側の観念は生まれなかったことだろう。
古代ペルシャは、良いところもあったかもしれないが、抑圧的な唯一神を信奉する専制的な一枚岩の社会だった。ペルシャないし(真理・ドグマを体現するところのその唯一神)アフラマツダ(Ahura Mazuda)に反対する者は、神がかりの暴力によって改宗させられるか殺戮された。
これに対するに、古典ギリシャは、悪いところもあったかもしれないが、多神教的で、多元主義的であり、非ドグマ的であり、懐疑的であり、民主主義や自由の豊饒な土壌があった。
ペルシャ戦争はこの二つの相反するイデオロギーの間の戦いであり、われわれはこの勝利の承継者として、古典ギリシャ人に深甚なる感謝の意を表すべきだ。
ギリシャのペルシャ戦争勝利によって確立したところの、アジアと「欧州ないし西側世界」との間の境界線は、たとえトルコがEUに加盟したとしても、またたとえイスラム世界と西側世界との間の「対話」が進展したとしても、消えることはないだろう。
(3)コメント
しかし、私の見るところ、ホランドのペルシャ戦争評価を通じて浮き彫りになってくるのは、「欧州ないし西側世界(欧米)」とは何かではなくてアングロサクソンとは何かです。
これまで私が機会あるごとに指摘してきたように、アングロサクソンはホンネでは、自分達を一段高いところに置いて、「野蛮な」欧州やアジアを等しく見下しているのであり、ホランドもこのホンネに影響されて、無意識的に、(古典ギリシャとイコールであるところの)「欧州ないし西側」とアジアではなく、(古典ギリシャとイコールであるところの)アングロサクソンと「欧州ないしアジア」、を対置しているのです。
では、このようなホンネに忠実に、アジアを欧州並みに再評価するとどうなるのでしょうか。
その一つの回答が、今次大英博物館展で打ち出された古代ペルシャ観なのです。
(続く)