太田述正コラム#10564(2019.5.19)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その25)>(2019.8.7公開)

 以上に見たような幕藩体制という旧体制、アンシャン・レジームの中に潜んでいた、権力の抑制均衡のメカニズムがどういう形で具体的に明治国家体制につながったのかということについては、別に実証的な研究が必要です。・・・

⇒エッ、あなたの仕事はそういった実証的な研究を行うことじゃなかったの、というか、あなたも含めて、誰もそういった実証的な研究を行ったことがなさそうな、福澤話を延々と聞かされた我々のことも少しは考えて欲しい、と言いたくなります。(太田)

 明治国家の権力分立制と議会制・・・の観念を準備する母胎となり、またそれらの観念を具体的な制度として定着させる基盤となった政治的なコミュニケーションのネットワーク・・・を成り立たせる国民的な政治的公共性の概念がいつ、いかにして形成されたのか・・・を考えてみます。・・・
 ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマス<(コラム#5238)>は、『公共性の構造転換』<(注23)>という著作の中で、ヨーロッパにおける「市民的公共性」・・・は文芸的公共性の中から姿を現わしてくる・・・と説明しているのです。・・・

 (注23)「ドイツ語の原著は1962年刊<であり、その内容は、>・・・ヨーロッパで16世紀以後に絶対主義時代になると・・・国家が公的なものであり、国家ではないものが私的なものとの観念が成立した。・・・後に市民社会が出現すると、社会的地位に関係ない社交性や民衆による討議、万人が討論に参加することの可能性などに特徴付けられる市民的公共性がもたらされた。市民的公共性では論証以外のあらゆる権威を認めなかった。・・・20世紀には・・・福祉国家を実現した。これは市民的公共性に大きな変化をもたらすことになり、人びとは行政サービスの受益者となったために批判的理性を以って政府に主体的に向き合うことができなくなった。公共性への参加の自由は受益と消費の自由に変容してしまった<、といったものだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%85%B1%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0%E8%BB%A2%E6%8F%9B

 日本では、18世紀末の寛政期以降、幕府の官学昌平黌が幕臣のみならず、諸藩の陪臣や庶民にも開放されるとともに、全国の藩に採用された昌平黌出身者を中心として横断的な知識人層が形成されました。
 彼ら相互間に儒教のみならず、文学、医学等を含めた広い意味の学芸を媒介とする自由なコミュニケーションのネットワークが成立したのです。
 それは非政治的な、ある種の公共性の概念を共有するコミュニケーションのネットワークでした。
 それは当時「社中」<(注24)>とよばれた、さまざまの地域的な知的共同体を結実させ、それら相互のコミュニケーションを発展させていったのです。・・・

 (注24)「社中(しゃちゅう)は、広義には同じ目的を持つ人々で構成される仲間や組織を指す。狭義においては、茶道や華道、神楽などの同門の師弟で構成される、活動の拠り所となる最小単位を社中と呼ぶ。歴史的な用例としては「蛮学社中」を略した蛮社の獄や、坂本龍馬が中心になった亀山社中などがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%B8%AD

⇒何を寝惚けたことを。
 社中なんぞを持ち出すまでもなく、日本には、弥生時代から、「文芸的公共性」が成立していたというのに・・。↓
 「中世における連歌の起源、「花の下(もと)連歌」と呼ばれる形の詩歌の起源は、農業社会の男女が祭礼の折に儀式的に詩句を交わしたという、古代共同体の民衆慣行にまで遡ることができる。・・・鎌倉時代・・・の初め頃・・・<京都>郊外の神社仏閣の庭に桜の花が咲くと、人びとは家を出て花の下に寄りつどい、連歌をつく<るようになった。>この「花の下」での連歌セッションは、すべてのレベルの地位身分に対して開かれていた。」
https://books.google.co.jp/books?id=EsRGep66zY0C&pg=PA123&lpg=PA123&dq=%E9%80%A3%E6%AD%8C%EF%BC%9B%E5%8F%82%E5%8A%A0%E8%80%85&source=bl&ots=YRv4GVkcAI&sig=ACfU3U3SYOx6jARC5n18mqJatQHsJkwZmA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjz8JXKyaTiAhVgwIsBHS2vCcw4ChDoATAEegQICRAB#v=onepage&q=%E9%80%A3%E6%AD%8C%EF%BC%9B%E5%8F%82%E5%8A%A0%E8%80%85&f=false
 そんな日本では、「広い意味での学芸を媒介とする自由なコミュニケーション」の場が「庶民にも開放される」「横断的な」ものになるのは当然であり、そのような江戸時代の儒学の学堂の事例としては、昌平黌よりも「書生の交わりは、貴賤富貴を論ぜず、同輩と為すべき事」とした、大阪の懐徳堂(1724年~)・・「<幕府>から公認されて官許学問所となり、学校敷地を拝領し<たが、>・・・その後の運営の財政面は町人によって賄われ<た>」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E5%BE%B3%E5%A0%82
の方がより相応しいのではないでしょうか。(太田) 

(続く)