太田述正コラム#10572(2019.5.23)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その29)>(2019.8.11公開)

 王政復古というのは幕府的存在を排除するということを意味したわけです。
 そして、幕府的存在を排除するために最も有効なものとして考えられたのが、議会制とともに憲法上の制度として導入された他ならぬ権力分立制でした。・・・
 権力分立制の下では、いかなる国家機関も単独では天皇を代行しえ<ないからです>。・・・
 憲法起草責任者であった伊藤博文は特に議会について、議会こそまさに覇府であってはならないという点を強調しました。
 「王政復古は所謂統治大権の復古なり。
 吾等は信ず、統治の大権、覇者に在る者を復し、直に之を衆民に附与して皇室は依然其統治権を失ふこと、覇府存在の時の如くせんと云ふが如きは、日本臣民の心を得たるものにあらず。
 況や我国体に符合するものにあらず」というふうに、伊藤博文は述べたわけです。・・・

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[大日本帝国憲法制定経緯]

 「明治8年(1875年)4月14日、明治天皇が「漸次に国家立憲の政体を立てる」という詔書を出した(立憲政体の詔書)。三条実美や木戸孝允・板垣退助(木戸の推挙で再び政府に復帰していた)が奏上したのだが、岩倉はこれに対して国体一変の恐れがあるとして詔書に反対の立場であった。・・・
 しかし明治13年(1880年)頃から自由民権運動が高まり、憲法制定論議が加速し・・・たことで、岩倉もいよいよ考えを変え<たが、>・・・問題は誰に憲法制定を任せるかであった。
 これに先立つ明治11年(1878年)には内務卿の大久保利通が不平士族の暴漢に襲撃されて死去している(紀尾井坂の変)。以降大久保に代わって岩倉を支えていたのは、伊藤博文(工部卿)と大隈重信(大蔵卿)であったから考えられるのはこの二人のどちらかであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96 (下の[]内も)
 「1880年(明治13年)、元老院は「日本国国憲按」を成案として提出し、また、[急進派の]大蔵卿・大隈重信も「憲法意見」を提出した。しかし日本国国憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強権を定めるなど、ベルギー憲法(1831年)やドイツ帝国統一前のプロイセン王国憲法(1850年)の影響を強く受けていたことから[漸進派の]岩倉具視・伊藤博文らの反対に遭い、<これらは>採択されるに至らなかった。
 1881年(明治14年)8月31日、伊藤博文を中心とする勢力は明治十四年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。・・・
 1882年(明治15年)3月、・・・参議の伊藤博文らは・・・政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ帝国系立憲主義、ビスマルク憲法の理論と実際について調査を始めた。・・・
 1889年(明治22年)2月11日、明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅」が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。この憲法は天皇が黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され<た。>・・・
 福澤諭吉は・・・「そもそも西洋諸国に行はるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭ひ、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。中江兆民もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と<述べ>ている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
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⇒この一文がどこから引かれたものかを三谷は記してくれていませんが、伊藤が、摂関政治が始まった10世紀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB
から19世紀までの900年にも及ぶ、日本の、(建武中興時を除く)「覇府存在の時」、を日本の「国体」ではない、などとするトンデモ説を本当に抱懐していた、とは考えにくいものがあります。
 これは、伊藤が、政府部内の一員として、民間人たる福澤や中江のような愚民論を、いくら同感だったといえども、公言するわけにはいかなかったことから、「急進派」的な考え方への「反論」のため、筋悪であることは百も承知でこのような言い回しをした、ということではないか、と私は見ています。
 板垣は、その事績から、島津斉彬コンセンサス信奉者と見て良く、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9
また、大隈が島津斉彬コンセンサス信奉者であったことはかつて指摘した(コラム#省略)通りです。
 もとより、木戸や伊藤は、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者であったと思われるけれど、彼らに同調し、憲法制定の方向付けを行ったところの、岩倉もまた、その事績から、島津斉彬コンセンサス信奉者であると見て良いでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96 前掲
 憲法発布時の首相の黒田清隆も、薩摩藩出身であって、当然のことながら、島津斉彬コンセンサス信奉者です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86
 つまりは、憲法制定論議は、基本的に、島津斉彬コンセンサス信奉者達の間での内ゲバに過ぎなかった、というのが私の見解です。
 島津斉彬コンセンサス信奉者達中の「急進派」も「漸進派」も、いや、たとえ横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達であれ、国民の積極的協力なくしてこれら自分達のコンセンサスの完遂など不可能であることは共通認識だったはずであり、「漸進派」自身、やがて、この憲法の公定解釈の変更により、日本に議院(政党)内閣制・・国民の代表者達による政府・・が成立する運びになるであろうことは織り込み済みであった、と見てよいのではないでしょうか。(太田)

 「統帥権の独立」というの<も>「司法権の独立」と同じように、あくまでも権力分立制のイデオロギーなのです。
 したがって、それは軍事政権というようなものが出現することを正当化するイデオロギーではありえなかったわけです。

⇒どちらのコンセンサス信奉者達であれ、一体性のある強力な政府についてもまた、追求していたはずであることから、この三谷の指摘もまた、上出の伊藤の言に引きずられた誤りである、というのが私の見解です。
 (なお、「統帥権の独立」については改めて後述します。)(太田)

(続く)