太田述正コラム#10574(2019.5.24)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その30)>(2019.8.12公開)

 太平洋戦争中、東條内閣が東條幕府<(注32)>という名によって批判された所以はそこにありました。

 (注32)「普通政治家の大臣兼任はあまり珍しいことではないが、東條の大臣兼任の数は明らかに異常だった。当初は総理と陸相の兼任で始まったが、その後参謀総長、軍需大臣、商工大臣、内務大臣、文部大臣、外務大臣などを一時的な兼任も含めて9つほども就任した。これほど兼任した総理も珍しかった。軍職を兼任したことは天皇の統帥権を侵害しかねないことで、言論統制する内相の兼任は東條が日本の全ての暴力装置を牛耳ったことになり、ついたあだ名が「東條幕府」であった。」
https://dic.pixiv.net/a/%E6%9D%B1%E6%A2%9D%E8%8B%B1%E6%A9%9F#h3_0

 また、大政翼賛会が幕府的存在(あるいはソ連国家におけるボルシェヴィキに相当する組織)として当時の貴族院などにおいて指弾されたのも、やはり権力分立制の原則にそれが反すると考えられたからです。・・・

⇒三谷は、大政翼賛会の成立と東條の主要閣僚兼任や参謀総長兼任とをあたかも別個のもののように描いていますが、大政翼賛会の成立は1940年10月12日で、そのわずか6日後に「東條内閣(東條英機<大政翼賛会>総裁兼首相、陸相兼任・・・)」が成立する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E7%BF%BC%E8%B3%9B%E4%BC%9A
のですから、幕府呼ばわりにせよボルシェヴィキ呼ばわりにせよ、この二つは不可分の悪口であった、というのが私の見方です。
 我々が銘記すべきは、これは、天皇に幕府の長の実質的任免権がなかったところの幕府、同じく、政府首脳にボルシェヴィキの長の任免権がなくボルシェヴィキの長に政府首脳の実質的任免権があったところのボルシェヴィキ、と、天皇に首相の実質的任免権が復活していたところの、東條首相当時、とは全く異なっており、だからこそ、上出の二つの呼ばわりは悪口に過ぎなかったのであり、そんなことは、かかる悪口を実際に口に出していた人々にも分かっていたはずである、という点です。
 そもそも、三谷が言っているように、これら悪口を口に出していた人々が、本当に憲法や権力分立論を口に出していたのかさえ、私は疑っています。
 というのも、日本は、いわゆる憲政の常道
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93
の確立・・微妙に違うところはあるものの、要は、事実上の天皇主権から議会主権への革命的移行(但し、参謀総長及び軍令部総長等の数少ない実質的任免権だけが天皇の下に残された)・・の際に、幕府の復活だの憲法違反だの権力分立抵触だのの(悪口ならぬ)正当な批判すら、一部憲法学者による純粋理論的批判(後出)を除いて、なされなかったお国柄だからです。
 なお、その後、1932年の五・一五事件を契機とする有事下の挙国一致内閣成立でもって、憲政の常道が一時停止状態になった(上掲)ことに伴い、天皇の首相の実質的任免権が復活した状態が続いていたわけです。 
 ちなみに、いわゆる天皇機関説事件が起こり、表見上、天皇主権説が復活するのは、更に遅れて、1935年2月~9月のことです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%AA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6 (太田)

 <振り返れば、>反政党内閣論者の・・・憲法学者の穂積八束(やつか)は、一方においてイギリスの議院内閣制を、立法権と行政権とをあわせ持つという意味で、一種の専制政体であるとしてこれを排除し<てい>ます。
 <同時に、>穂積はアメリカの権力分立制を高く評価した<の>です。
 また、穂積の学問的後継者であった憲法学者の上杉慎吉もまた同じく反政党内閣論者として、明治憲法の基本原則としての憲法分立制を最高度に強調しました。
 そして・・・明治憲法には裁判所による法律審査権というものが明文化されていなかった<ところ、>・・・憲法解釈として上杉は、裁判所による法律審査権を認めたのです。
 この点が穂積・上杉と同じ憲法学者の美濃部達吉との非常に大きな違いでした。

⇒美濃部達吉(1873~1948年)の天皇機関説は、彼が東大で師事した一木喜徳郎(いつききとくろう。1867~1944年)譲りのものであり、一木が東大法(政治)卒で内務省に入省し独留して帰国して東大法教授になったのと瓜二つの、東大法(政治)卒で内務省に入省し独仏英留して帰国して東大法助教授・教授、というキャリアであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9C%A8%E5%96%9C%E5%BE%B3%E9%83%8E
天皇機関説、ひいては憲政の常道(事実上の議会主権)論、の背景に、内務省を中心とする官界におけるコンセンサスがあったことを推察させます。
 ちなみに、天皇主権説を堅持したところの、穂積八束(1860~1912年)も東大でこの穂積に師事した上杉慎吉(1878~1929年)も、それぞれ独留経験こそあれ、東大以外の世界を知らない純粋培養学者です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%82%E7%A9%8D%E5%85%AB%E6%9D%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%85%8E%E5%90%89 (太田)

 美濃部の場合には、権力分立といっても、それは三権が対等に並び立っているわけではなく、あくまでも立法権が優位する。
 したがって、裁判所が議会によってつくられた法律を審査するということはありえないというのが、美濃部の解釈でした。
 
(続く)
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太田述正コラム#10734(2019.8.12)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その104)>

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