太田述正コラム#876(2005.9.23)
<先の大戦万華鏡(その1)>
1 始めに
先の大戦は、アングロサクソンと日本が生来的な同盟関係にあるにもかかわらず、アングロサクソンは民主主義独裁のソ連並びに中国国民党や中国共産党勢力と提携し、日本は日本で民主主義独裁のナチスドイツやファシストイタリアと提携し、互いに戦う、という悲劇的な出来事であったことは、以前から何度も申し上げてきたところです。
この際、この大戦を、様々な角度から振り返ってみることにしましょう。
2 日本と英国とポーランドの不思議な関係
(1)日英戦争としての先の大戦
先の大戦の50回目の開戦記念日の1989年8月にポーランドのグダンスク(Gdansk)を訪問した米ブッシュ父大統領は、大観衆の前で、「ポーランドがナチスドイツに占領される前に、ポーランドは連合国側にドイツのエニグマ暗号機を与えてくれた。・・このことに対し、米国民は未来永劫感謝の念を抱き続けるだろう」と演説しました(http://www.enigmahistory.org/text.html。9月22日アクセス)。
しかし、ポーランド政府が1939年にこの暗号機を英国に渡した時、ポーランドの諜報機関はエニグマの解読に8割り方成功していてその情報も併せて伝達したというのに、英国政府はほとんど関心を示しませんでした。
というのは、当時の英国は、目前に迫っていたナチスドイツとの戦争より、来るべき日本との戦争の方により脅威を覚えていたことから、日本帝国海軍の暗号の解読の方により関心があったからです(注1)。
(以上、特に断っていない限りhttp://news.ft.com/cms/s/77e94794-1aae-11da-a117-00000e2511c8.html(9月3日アクセス)による。)
(注1)もちろん、上記ブッシュ演説からも分かるように、英国は、後になってこのポーランドの貢献に深く感謝するに至るのだが、にもかかわらず、その事実は戦後長らく伏せられてきた。それは英国が、ナチスドイツとの戦いで決定的役割を果たし、戦後ポーランドを含む東欧を支配することになったソ連のご機嫌を損ねたくなかったからだ。英国は、先の大戦の欧州戦域の戦いが終わった時、亡命ポーランド政府の軍人達が、ロンドンの戦勝パレードに参加することすら許さなかった。
ちなみに、ポーランド亡命政府の諜報員が提供したホロコースト情報についても、英諜報当局は、話が大げさ過ぎる、何で銃殺したり餓死させたりすればいいのにわざわざガス室までつくってユダヤ人を殺す必要があるのか、等の難癖を付け、仮に事実だとしても、戦争でドイツに勝利することことユダヤ人を救う王道だ、などとして、結局チャーチル首相の耳にはこの情報を一切入れずじまいだった(http://www.timesonline.co.uk/article/0,,2-1642411,00.html。9月22日アクセス)
このほかにも、ポーランド亡命政府の諜報員の活躍にはめざましいものがあった。例えば、ノルマンディー上陸作戦の前に全ドイツ軍の編成表を入手したり、またV2ロケットの実物と燃料を入手したりして、連合軍に貢献している。更に、ギリシャで破壊工作を成功させたり、アフガニスタンで政治工作を成功させたりしている。
当時のこの英国の戦略判断は、先の大戦の結果、欧州ではナチスドイツが壊滅した後、ソ連が東欧まで勢力圏を拡大しただけだったのに対し、アジアにおいては、日本が参戦直後に優位に戦いを進めただけのことで、戦後英国は大英帝国の中核的諸植民地を失い、やがて大英帝国が崩壊するに至ったことからすれば、まことに的確であったと言うべきでしょう。
このような意味において、先の大戦の本質は日英戦争だったのです(注2)。
(注2)このことは、コラム#48で私が、先の大戦における日本の主敵は、一にソ連、二に米国、三に中国国民党/中国共産党だ、としたことと矛盾するようだが、コラム#222で述べたところの、先の大戦のアジア戦域の構造に鑑みれば、決して矛盾はしていない。
(2)日本とポーランドの協力
このポーランドと日本は、先の大戦が始まった1939年から、日本の参戦に伴い、両国が国交断絶した以降も終戦に至るまで密かな協力関係にありました。
(以下、特に断っていない限りhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html、及びhttp://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog323.html(どちらも9月21日アクセス)による。既にご存じの読者もおられようが、あしからず。)
その伏線の第一は1904?05年日露戦争の時に求められます。
ロシアの支配下にあったポーランドの人々が独立を熱望していることを承知していた日本政府は、日露戦争中松山にロシア軍捕虜収容所を設けたところ、情報を引き出す目的もあって、ポーランド人捕虜はロシア人とは分けて、(同じく少数民族だったリトアニア人・ドイツ人とともに)最寄りの曹洞宗のお寺に収容し、厚遇しました(http://www.vanyamaoka.com/senryaku/index2920.html。9月22日アクセス)。
第一次世界大戦中の1818年にロシア革命が勃発すると、独立運動に関与した廉でシベリアに流刑になり、あるいは難民としてシベリアに逃れてきていたポーランド人達は、祖国独立のために、チューマ司令官以下2,000名の部隊を結成し、シベリアで反革命政権を樹立したコルチャック提督の白軍を助けて赤軍と戦ったのですが、戦況は不利になり、ウラジオストックに逃げ込みます。
この時シベリア出兵(注3)をしていた日本政府は、ポーランド人部隊を救出し、彼らを支那・日本を経てポーランドへ帰還させたのです。これが伏線の第二です。
(注3)1918?22年。当初は、米英仏軍もシベリア出兵に加わった。(http://ww1.m78.com/sib/start%20%82%8F%82%86%20the%20expedition.html。9月22日アクセス)
伏線の第三は、上記シベリア在留ポーランド人の孤児達の救出に日本政府が尽力したことです。
1919年のポーランド独立を経て、20年にはソ連とポーランドとの戦争が始まっており、孤児達は路頭に迷っていました。日本政府は1920年から22年にかけて、合計765名の孤児達を日本に迎え、朝野を挙げて温かくもてなし、病気を治し、栄養を付けた上で、日本船でポーランドに送り届けたのです。
(続く)