太田述正コラム#10612(2019.6.12)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その48)>(2019.8.31公開)

 自ら認めるように、北京条約に調印し、日清間の戦争を回避する結果を得た1874(明治7)年10月31日の時点が、大久保<利通>の政治的生涯の頂点であったというべきでしょう。
 そして同時にこれによって大久保は、自ら主導した自立的資本主義路線を可能にする対外平和を購うことができたのです。・・・
 <彼は、>その4年後の1878(明治11)年5月14日朝、・・・石川県士族島田一郎<(注51)>ら6人の暗殺者たちに襲撃され、突然生涯の幕を閉じることになります・・・<(注52)>。

 (注51)1848~78年。長州征伐、北越戦争に従軍。陸軍軍人(最終階級中尉)。帰郷後萩の乱、西南戦争への呼応挙兵を試みるが断念。大久保暗殺後自首し斬首刑。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E4%B8%80%E9%83%8E
 (注52)紀尾井坂の変。「実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名・・・
 島田らが大久保暗殺時に持参していた斬奸状は、・・・有司専制の罪として、以下の5罪を挙げている。
国会も憲法も開設せず、民権を抑圧している。
法令の朝令暮改が激しく、また官吏の登用に情実・コネが使われている。
不要な土木事業・建築により、国費を無駄使いしている。
国を思う志士を排斥して、内乱を引き起こした。
外国との条約改正を遂行せず、国威を貶めている。・・・
 <このほか、>他の政府高官(木戸孝允、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良)の罪<も>挙げ<ていた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE%E4%BA%95%E5%9D%82%E3%81%AE%E5%A4%89

⇒島田一郎は、長州征伐、北越戦争従軍を通じて、一緒に戦った西郷等の薩摩武士達との交流を通じて、島津斉彬コンセンサス信奉者になった、と、私は見ています。(太田)

 「斬姦状」にはその一つに「外国交際の道を誤り以て国権を失墜す」とあります。
 具体的にはそれが日清間の妥協的平和に導いた台湾出兵の善後処理に対する批判に発していたことは疑いえないでしょう。

⇒「疑いえない」ほどの話であれば、斬姦状にはっきりそう書かれていたはずです。
 書かれていなかった以上は、三谷の臆測でしかありません。(太田)

 なおその前年(1873年)、大久保らとの征韓論争に敗れて下野していた西郷隆盛は、<台湾出兵後の>大久保による対清交渉が決裂に到らず、妥協によって事態が収拾されるであろうことを見通していました。・・・
 西郷は<、ある>書中<で>、・・・「破談に及び候気遣ひはこれある間敷(まじく)と相考え申し候。夫故大久保も出立候はん・・・和魂の奴原(やつばら)、何ぞ戦斗の事機を知るべきいわれこれなしと相考え申し候」という辛辣な文言を交渉に臨む大久保に投げかけてい<るので>す。・・・
 <ちなみに、>島田一郎<らのこの対清交渉への態度は明らかになっていませんが、彼>らは西郷の征韓論に共鳴し、その敗北と西郷の下野に憤激し、さらにその反乱を支持し・・・た<、という事実はあります。>・・・
 <なお、>参議兼海軍卿であった勝海舟は、台湾出兵そのものに反対し、閣議への出席を拒否しました。

⇒私の言う、勝海舟通奏低音信奉者達、の元締めここにあり、といった趣ですね。(太田)

 その理由は、台湾出兵が日清戦争の導火線となりうる事態への危惧と、戦争勃発の場合の外債やインフレによる国家財政への危機的影響でした。

⇒紀尾井坂の変の時点では、西南戦争が終わっていて西郷は既にこの世にはいなかったわけですが、「大久保は家族にも秘密で、生前の西郷から送られた手紙を入れた袋を持ち歩き、暗殺された時にも西郷からの手紙を2通懐に入れていた。」(上掲)というのですから、西郷が、大久保が島津斉彬コンセンサス(就中その横井小楠コンセンサス部分)信奉者から勝海舟通奏低音信奉者へと転向したと誤解したまま亡くなったであろうことに、大久保は心を痛め続けた、という構図が私には浮かぶのですが・・。
 島津一郎らも同じ誤解を大久保に対して抱いていたと思われるところ、それが誤解であった証拠としては、斬姦状で大久保と並んで非難されていたところの、伊藤博文、が首相(第2次伊藤内閣)の時に日本は日清戦争を決行する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
、ということ一つを挙げれば十分ではないでしょうか。
 つまり、横井小楠コンセンサスに関し、西郷や島田ら、と、大久保や伊藤ら、との違いは、単に、対支那戦争を起こすにあたって、適切なタイミング(時間軸)をいつと認識するか、の違いに過ぎなかった、ということを私は強調したいのです。
 要は、西郷や島田らは、匹夫の勇こそあったけれど、自身で内外情勢を咀嚼し、適切なタイミングを見極めるだけの能力がなく、島津斉彬が亡くなり、その指示が得られなくなってから時間が経つにつれて、次第に馬脚を顕わしてきたということだ、と・・。(太田)

(続く)