太田述正コラム#10614(2019.6.13)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その49)>(2019.9.1公開)

 以上に述べたよう<な>・・・一国資本主義を財政の上で実質化したのが、明治14年(1881年)の政変によって登場した経済リーダーとしての大久保の後継者松方正義の財政<(注53)>でした。・・・

 (注53)「松方は、明治10年(1877年)に渡欧し、明治11年(1878年)3月から12月まで、第三共和制下の、パリを中心とするフランスに滞在し、フランス蔵相レオン・セイ(「セイの法則」で名高い、フランスの経済学者のジャン=バティスト・セイの孫)から・・・日本が発券を独占する中央銀行を持つべきこと・・・を勧められた。また、当時欧米の主要国が銀本位制から金本位制に移行しつつあったことを踏まえて、日本も金本位制を採用することを勧められた。・・・
 後の明治16年(1883年)に、松方は・・・レオン・セイに勲一等旭日大綬章が贈られるように図っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9

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[レオン・セイの経済学]

 「学制」の実施が欧州就中(広義の)ドイツの義務教育のモロ継受だったとすれば、松方財政だってレオン・セイの経済学のモロ継受であった可能性がある・・そもそも、松方の教育や経歴の中に経済・財政通に繋がるようなものは見当たらない・・、と考え、その「祖父<のジャン=バティスト・セイ>同様、レオン・セイ(Leon Say)は、イギリス歴史学派経済学に共感を抱いていた(sympathied)」
https://en.wikipedia.org/wiki/Léon_Say
、ということを重視し、このイギリス歴史学派経済学(English historical school of economics)(注54)なるものについて、少々調べてみた。

 (注54)イギリスのそれよりはるかに有名な、フリードリヒ・リスト(Friedrich List)から始まるところの、ドイツ歴史学派経済学、については、下掲参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E6%B4%BE
 
 「19世紀初におけるディヴィッド・リカード(David Ricardo)の演繹的アプローチの勝利の後、経済学における帰納的方法(methods)の復活を追求した。
 この学派は、自分達を、経験主義と帰納を強調したところの、フランシス・ベーコン(Francis Bacon)やアダム・スミス(Adam Smith)らの、過去の諸人物の知的後継者達である、と考えていた。

⇒彼らは、自分達こそ、イギリスの正統派経済学者達である、と自負していたわけだ。(太田)

 この学派に属したのは、ウォルター・バジョット(Walter Bagehot)<や>・・・アーノルド・トインビー(Arnold Toynbee)(注55)<ら>だ。・・・

 (注55)1852~1883年。「オックスフォード大<卒。>・・・イギリス古典派経済学の「賃金の鉄則」や「自由放任政策」を批判する立場をとった。・・・「産業革命」を学術用語として広め・・・「セツルメントの父」とも呼ばれる。・・・<あの>アーノルド・J・トインビーの叔父」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%BC

⇒三谷のお気に入りのバジョット、登場!(太田)

 彼らは、慎重な統計的研究(research)を行う必要性を認めた。
 彼らは、「利潤極大化<を追求する>個人」や「快楽と苦痛の計算(calculus)」、を経済分析・政策の唯一の基礎とする仮説を否定した。
 彼らは、利他的な諸個人の集団的全体(collective whole)を分析の基礎とすることがより適切(reasonable)である、と信じていた。

⇒人間主義的な経済学を目指した、というわけだ。(太田)

 <彼らは、>また、それがどのように導き出されたかにかかわらず、経済政策的諸処方箋が、リカード学派やマーシャル学派の学者達のように、場所や時にかかわらず普遍的に適用されるべきものである、とする見解を拒絶した。・・・

⇒「場所や時」に応じて、柔軟に「経済政策」を行うべきだ、と唱えたわけだ。(太田)
 <彼らは、>古典派経済学と新古典派経済学について、硬直化しているし(too formal)、かつまた、植民地主義的や帝国主義的な環境(setting)下における自由貿易的諸政策を正当化している(rationalization)、と見ていた。・・・」
https://en.wikipedia.org/wiki/English_historical_school_of_economics

⇒イギリス発祥の個人主義的経済学は、使い物にならないだけでなく、英帝国主義の隠れ蓑として用いられている、と喝破していたわけだ。(太田)
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 <松方は、政変で下野した、前任の>大隈重信の基本路線を根本から転換します。・・・
 不平等条約体制の下で外債に依存することの危険を、エジプト、トルコ、インド等、の先例を挙げ、強調<することによって・・。>

⇒すぐ上の囲み記事を踏まえれば、セイが、英国が、海軍力をバックに、その経済力と金融力の優位を活用して、「自由」貿易と借款供与をテコとして、非欧米世界の正規・不正規植民地化を図る、という省力化された帝国主義政策を推進してきたこと、これに対して日本の安全保障をどのように確保すべきか、を、経済・財政的観点から、松方に提言したと想像できる、というものです。
 そうだとすれば、それは、(英国に比して、経済力と金融力の劣位により、露骨な軍事力行使でもって植民地化を図る、いわばごり押しの帝国主義政策を推進せざるをえなかった)フランスにとって最大の敵国であり続けてきた英国の一層の勢力拡大阻止につながるという意味で、フランスの国益に即した提言でもあったわけです。

(続く)