太田述正コラム#10616(2019.6.14)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その50)>(2019.9.2公開)
そろそろ潮時だと思うので、書いておきます。
以下をまず読んでください。↓
「松方<・・薩摩藩出身で当然島津斉彬コンセンサス信奉者(太田)・・>は・・・日露戦争前の明治34年(1901年)に開かれた、日英同盟を締結をするかどうかを検討した元老会議においては、対露強硬派として、当時の首相・桂太郎の提案どおりに、山縣有朋、西郷従道らともに日英同盟締結に賛成している。・・・
明治35年(1902年)1月に日英同盟が締結されると、日露戦争の準備のためにアメリカを経由して欧州7カ国へ赴き、イギリスでは戴冠前のイギリス国王エドワード7世に拝謁を許されるなどの大歓迎を受けている。国王拝謁の次に、ロスチャイルド卿ナサニエルの私邸に招待されている。ナサニエルとクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフは共に英米ユダヤ社会の指導者であり長年の友人であった。エドワード7世はナサニエルの学友であり、エドワード7世の側近で個人経済顧問のアーネスト・カッセルもシフの長年の友人であった。・・・
日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤博文・井上馨らに反論し、積極的に開戦を主張、蔵相に自信がないとしても自分が補佐するから財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9
「シフ家とロスチャイルド家は親しい間柄にある。・・・ロスチャイルド家発祥の家<は>・・・ひとつ屋根の建物で左翼がロスチャイルド家、右翼がシフ家<だった。>・・・イギリスは国を挙げて、銀行家ではロスチャイルド家を中心として、日露戦争の準備をしていた・・・。ロスチャイルド家みずからはロシアに敵対する国の国債を買うことはできないから、一族でしかもアメリカに本拠を置くクーンローブ商会のシフを通じて、日本を援助するように仕向けたのである。」※
https://books.google.co.jp/books?id=1KlWBAAAQBAJ&pg=PA1896&lpg=PA1896&dq=%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9%EF%BC%9B%E3%82%B7%E3%83%95&source=bl&ots=myKtXMhhi6&sig=ACfU3U2fD4w2M0JPNerOtZHitImcheQtXQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjU_P7psuPiAhXbxYsBHSRiCwcQ6AEwBnoECAgQAQ#v=onepage&q=%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9%EF%BC%9B%E3%82%B7%E3%83%95&f=false
「日露戦争に際しては、日銀副総裁であった高橋是清が外債募集のためアメリカにわたるが、どこも公債を引き受けようとしなかった。ついで2年前に日英同盟が結ばれていたイギリスにわたり、諸銀行から500万ポンドの公債引き受けをなんとかとりつけるが、バクー油田の利権を獲得していたイギリス・ロスチャイルドに融資を断られる。第1回の戦時国債は1,000万ポンドが必要だった。そんななか、ある銀行家の晩餐会で隣席したシフより「日本兵の士気はどのくらい高いか」などとの質問をうけ、高橋が応答すると、翌朝、500万ポンド公債をシフが引き受けることが伝えられた。1904年5月、日本は戦時国債を発行することができた。
シフは2億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助したことで、日本勝利と帝政ロシア崩壊のきっかけを作った。以後日本は3回にわたって7,200万ポンドの公債を募集、シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズなどに呼びかけ、これも実現する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%95
さて、最初の邦語ウィキペディアでは、松方がシフに引き合わされたと書いてはありませんが、当然、引き合わされたのであって、松方は、ロスチャイルドやシフから、※の趣旨の話を内々聞かされていた、と見ていいでしょう。
つまり、松方は、日露戦争の暁には、英国政府の後ろ盾の下、米国を本拠とするシフによって日本の外債を完全に捌いてもらえるとの確信を得て帰国していたので、日露戦争開戦に当たって、上出のような豪語ができたのであって、高橋には、以上のような話をこれまた内々伝えた上で米英訪問をさせた、と思われるのです。
私が何が言いたいかというと、松方財政当時の外債非依存政策の背景に、松方固有の哲学があったわけではなく、セイの「レク」の核心であったところの、「「場所や時」に応じて、柔軟に「経済政策」を行うべきだ」、に忠実に、松方は、蔵相として、外債非依存を前提とした松方財政を推進する一方、日露戦争にあたっては、元老の一人として、一転、外債依存による資金調達に邁進した、ということなのです。(太田)
松方が外債発行に代わる選択肢としてとったのは次の二つです。
第一は、いわゆる超均衡財政の強行です。・・・
⇒「超均衡財政の強行」についても、同じことが言えるのであって、TPOに応じて、同じ松方が超赤字財政を強行することだって、当然ありえた、ということです。↓
「日清戦争の時には松方は前首相ながら無役であったが、西南戦争の戦費を基準に予算を立てようとした当時の首脳部を戒め「このような時には前例などにとらわれず、勝つ為にいくら必要かの見込みを立てて、それを工面する方法を考えるべき」と主張した。また、伊藤と井上が「富豪から『戦勝後に国債と引き替える』として献金を募る」という提案をしたのに対し、「善意で献金した人間が『所詮国債目当て』と白い目で見られる」「政情の変化で国債に引き替えられなくなったら政府が国民を欺いたことになる」として「いっそ最初から国債を売った方がよい」と述べ、井上と論争の末「松方の案がもっともだ」と井上に言わしめた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E6%AD%A3%E7%BE%A9 (太田)
(続く)