太田述正コラム#10618(2019.6.15)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その51)>(2019.9.3公開)

 松方がとった第二の選択肢は、積極的正貨供給政策です。
 政府の「準備金」という名目の財政資金を運用することによって、一種の貿易管理および為替管理政策を行い、正貨準備の増大を図ったのです。
 これは政府が「準備金」からの資金を輸出業者に紙幣で貸し付け、輸出業者が売り上げ代金を外国で受領した時に、それを政府系の対外金融機関である横浜正金銀行を通して外貨で回収するというものでした。
 この仕組みによって政府は紙幣を外貨に換え、正貨の蓄積を進めたのです。
 これに加えて、政府は積極的に官営貿易を進め、この面でも正貨の吸収を試みました。・・・

⇒このくだりは、「江戸時代から続いていた豪商の三井家は明治政府を支持して小野家、島田家とともに明治政府の会計事務局為替方とな<ったところ、>・・・当初は政府の御用商品を扱<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%B2
ことを指しているのでしょうか。
 御用商品とは生糸のことを指しているのでしょうか。
 「官営貿易」の説明がないので困ってしまいます。(太田)

 以上二つの財政政策に加えて、松方は1882(明治15)年の日本銀行設立による信用体系の整備を進め、大蔵省札という形で政府が自ら発行していた紙幣や、他の国立諸銀行も発行していた紙幣を漸次日本銀行券に一本化し、財政と金融との分離を進めました。
 こうして松方財政は外債に依存せずして、正貨準備を増大させ、通貨価値の安定と信用制度の確立をもたらしました。・・・

⇒日本で中央銀行を作れ、その場合はこうせよ、と、セイに言われた通りのことを松方がやっただけだ、というのが私の見立てです。(太田)

 <また、>大久保没後内務省勧農局長の任にあった松方は、大久保時代の官営施設の廃止や民営化を示唆しており、その方針を勧業政策全般に及ぼしていったのです。・・・
 <しかし、>1881(明治14)年4月に・・・内務省勧農局と大蔵省勧商局とを分合して・・・発足し<た>・・・農商務省・・・内部には、・・・大久保の・・・産業化<=殖産興業(太田)>路線を・・・薩摩出身の前田正名のように、・・・さらに拡大発展させようとする強い志向も見られました。・・・
 <その前田は、>1885(明治18)年12月、強固な反薩長感情をもつ谷干城(たてき)農商務大臣によって非職処分に付され、一旦省外に去<ります。>・・・

⇒谷は土佐藩出身であったところ、彼は、「軍の人事や組織案などに口出し<する、>・・・四将軍派の1人として<、いずれも島津斉彬コンセンサス信奉者であるところの(太田)、>山縣と大山巌、桂太郎・川上操六ら主流派と対立、軍事方針とそれに伴う外交を巡り衝突した。・・・谷の農商務相就任は伊藤が四将軍派の関心を得るための人事であ<ったが、>・・・<横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者であるところの(太田)、>伊藤と井上馨ら政治家は主流派の軍拡と清への強硬姿勢に反対、三浦の軍縮案に傾いていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E
という背景があったのであり、「主流派」は薩長出身者であったとはいえ、伊藤と井上は長州藩出身ですし、四将軍派の残りの3名である、曾我祐準、鳥尾小弥太、三浦梧楼、のうち、島尾と三浦は長州藩出身である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E6%88%91%E7%A5%90%E6%BA%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B0%BE%E5%B0%8F%E5%BC%A5%E5%A4%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC
、ということからして、そもそも、薩長土肥の「藩閥」に属する谷、の「反薩長」なるものは、単に、権力闘争において敵に付けた貶符丁に過ぎない、と言うべきでしょう。(太田)

 前田の在任中、4歳年少の高橋是清は、・・・<前田の>部下として・・・前田に深く共鳴し、その影響は後年の財政経済リーダーとしての使命感や価値観にも及びました。・・・
 <当時、>後の首相原敬もまた農商務省に<在籍していましたが、>・・・原は・・・前田および前田派を単なる守旧派としての薩派以上のものとは見ず、・・・農商務省を去る・・・のです。・・・

⇒原は戊辰戦争で賊軍側に与し、辛酸をなめさせられた盛岡藩出身ですから、反「藩閥」であったとすれば、それなりの理解もできないわけではありませんが、反「藩閥」ではなく反「薩」だったというわけですから、これは、元々人材の乏しかった・・アホ≒頭が固い≒守旧派、ばかりであった・・薩摩藩出身者が、西南戦争による「損耗」によって更に人材が払底するに至っていたにもかかわらず、(維新時の功績、及び、島津斉彬コンセンサス信奉を通じた、薩摩藩を超えた強力なネットワーク、のおかげで)日の当たる道を歩んでいた者が多かったことに割り切れない思いを抱いた(原のような)人物もいた、ということでしょうね。
 とまれ、様々な機会に申し上げてきたように、維新以後の日本においては、「薩」派も「薩長」閥も「藩」閥も、存在などしなかったのです。(太田)

(続く)