太田述正コラム#894(2005.10.7)
<大英帝国論をめぐって(その4)>
(本篇は、10月5日に上梓しました。)
(3)英国によるインドの搾取
19世紀以降、英国は米国及び英国人が多数移住したカナダ・豪州・ニュージーランド・南アフリカに多額の投資を続けてきました。
しかし、この間の英国の対米貿易収支は大幅な赤字でした。
それでは、上記の投資の原資を英国はどこから得ていたのでしょうか。
その答えはインドです。
まず、第一次世界大戦までは、インドの対米貿易収支は大幅な黒字を続けました。(この間、インドの対英本国貿易収支はおおむね赤字でした。)これで、大英帝国としては、対米貿易収支はトントンにすることができたわけです。しかし、これだけではまだ、投資の原資を得るところまでは行きません。英国はインドを様々な形で搾取することによって投資の原資を得ていたのです。
一つには、インドの官僚機構と軍隊はインドからの税収によってまかなわれていたということです。インドは官僚機構も軍隊も、インドだけのために用いられたわけではなく、大英帝国全体のために用いられました。官僚機構は、英本国の中東や中央アジア政策を代行しました(典拠失念)し、軍隊は、第一次世界大戦の時も、先の大戦の時も、あらゆる前線で大英帝国のために戦争に従事させられました。つまり、英国は本国の行政経費と軍事費の一部をインドに肩代わりしてもらっていた勘定になります。その肩代わりしてもらって浮いた分が、投資の原資になった、ということです。
二つには、英本国政府がインドの官僚機構等に貸与した資金に対する利子収入(支払いにはインドでの税収が充てられた)も投資の原資になりました。
三つには、上記のインドの貿易に係る商社・銀行・船会社・保険会社のほとんどは英国の企業であって、インドの貿易総額の40%にも相当する収益を上げ、これも投資の原資になりました。
四つには、インドで享有していた特権(注8)に基づきインド人を排することで、英国人や英国の企業(一部欧州人や欧州の企業)がプランテーション・鉄道・鉱業に投資をして高い収益を上げ、その収益をインドに再投資して更に高い収益を上げる、ということを繰り返したところ、これも投資の原資になったのです(注9)。
(注8)鉄道を例にとろう。インドの官僚機構がインド人に鉄道敷設の許可を出すわけがなかった。いざ鉄道が敷設されると、その鉄道会社の本社は英本国に置かれ、取締役には全員英国人(一部欧州人)が就き、幹部の募集は英本国で行われて英国人(一部欧州人)が雇用され、機関車やレールは英本国で製造され、寝台車でさえ長い間英本国か豪州等で製造された。この会社のインド人株主が若干いたとしても、その発言権は全く認められなかった。それだけではない。貨物運賃は、インドの国際港と消費地の間では安く、それ以外では高く設定されたし、輸入商品に比べてインド産品の運賃は高く設定された。
1846年の穀物法(1815年制定)廃止と1849年の航海法(1651年制定)の廃止により、英国は自由貿易時代を迎えるわけだが、インド等では、このように英国人や英国企業(一部欧州人や欧州企業)が特権を享有しており、市場はねじまげられていた。
(注9) 一?四は、英国人が多数移住していない大英帝国海外領土(例えばエジプト・・ただし保護国)にも当てはまるし、二?四は、大英帝国の半植民地の支那や(ブラジルやアルゼンチンを始めとする)多くの中南米諸国にも当てはまる。
このように、インド等原住民の多いところでは収奪の限りをつくし、収奪で得た原資を英国人が多数移住した米国やカナダ・豪州・ニュージーランド・南アフリカに投資する、というのが大英帝国の完成時の基本構造なのです。
インド等がつい最近まで経済的に低迷を続け、何度も大飢饉で天文学的な犠牲者を出し(注10)、その一方で、(南アフリカはさておくとして、)米国はもとより、カナダ等現在英本国の君主を元首とする国々が発展し、繁栄を謳歌するに至ったのは、まさにそのためだったのです。
(以上、http://www.epw.org.in/showArticles.php?root=2002&leaf=06&filename=4555&filetype=html(10月4日アクセス)、及びhttp://www.atimes.com/atimes/Front_Page/GJ04Aa01.html前掲、による。)
(注10)先の大戦中の1943年にも、インドでは400万人の餓死者が出ている(コラム#27)。
(続く)