太田述正コラム#896(2005.10.8)
<大英帝国論をめぐって(特別編)(その2)>
(本篇は、10月6日に上梓しました。)
2 ラムのために起きた米独立革命
(1)二つの三角貿易
当初、英国による三角貿易(triangular trade)(コラム#892)は、オランダやフランスとの武力闘争を伴う激しい競争に晒されていました。しかし、スペイン継承戦争(コラム#100、162、802)に勝利した英国は、1713年のユトレヒトの和議でスペイン領植民地への奴隷供給権(アシェント権)を獲得し、三角貿易を事実上独占することに成功します。
ところがこの頃から、西インド諸島の糖蜜(molasses。サトウキビから砂糖を精製する過程で出る残滓)を英領北米植民地に送り、これをラム酒(rum)に加工してその一部を西アフリカに送り,そこでこれを通貨代わりに使って奴隷を買い入れ,今度はそれを西インド諸島に送る、というもう一つの三角貿易を英領北米植民地の商人達が始めます。
こういうわけで、ラム酒は英領北米植民地の輸出の80%を占めていました。しかもラム酒は同植民地の人々の愛好品でもあり、当時彼らは一人当たり年間4ガロンのラム酒を飲み干していました。
問題は、糖蜜の仕入れ先が仏領西インド諸島だったことです。仏領西インド諸島からは、英領西インド諸島に比べてより質の良い糖蜜を、しかも大量に仕入れることができたからです。
これは、英本国の保護主義に相反するものでした。
(2)米独立革命へ
そこで英本国は、1733年に糖蜜法(Molasses Act)を制定し、仏領西インド諸島から北米植民地に輸入される糖蜜に関税をかけることにしました。
ところが、植民地側はこの法律を無視しましたし、英本国もまた、この法律を遵守させる手を何も打ちませんでした。この結果、植民地の人々の間で、英本国が制定した法律であっても、自分達が気に入らないものは守らなくても良い、という風潮が生まれます。
やがて英本国も鷹揚な態度を続けられなくなります。
再び勝利に終わったフレンチ・インディアン戦争(7年戦争)(コラム#96、457、459、511、620、621、654)の戦債の償還と引き続いての北米植民地における英軍駐留経費捻出を目的として、英本国は、1763年に砂糖法(Sugar Act)を制定するのです。この法律は、1733年の法律よりも関税率を下げる代わりに、確実に遵守させよう、というものでした。
これが、北米植民地の人々の間で、憤激を呼び起こし、英本国からの独立を求める人々が現れます。
更に、追い打ちをかけるように、1765年には新聞・各種証書・パンフレット・トランプ等に印紙を貼ることを義務付けた印紙法(Stamp Act)、1767年には茶・ガラス・紙・鉛・塗料などに関税をかけるタウンシェンド諸法(Townshend Acts)が制定され、植民地側は「代表なきところに課税なし」と唱えて猛烈な反対運動を行い、印紙法を撤回させることに成功するのですが、タウンシェンド諸法は撤回されず、ついに1773年のボストン茶会事件へ、更には1775年の独立戦争開始へと至るのです。
以上から、紅茶への課税はあくまでも米独立革命のきっかけとなっただけであって、米独立革命の原因はラム酒への課税にあった、ということになりそうです(注5)。
(以上、http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-standage4jul04,0,627101,print.story?coll=la-news-comment-opinions(7月5日アクセス)及びhttp://www.tabiken.com/history/doc/H/H131L100.HTM前掲による。なお、最後の段落は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%B3%E8%8C%B6%E4%BC%9A%E4%BA%8B%E4%BB%B6(10月6日アクセス)も参照した。)
(注5)米国が独立してからしばらくして、米国建国の父の一人であるアダムス(John Adams)(コラム #91、503、504、518)は、友人に宛てた手紙の中で、「糖蜜が米国独立の枢要な成分(essential ingredient)であったことを告白するにあたって赤面する必要がないのはなぜかを私は知っている。偉大な出来事の多くは、ささいな理由から起こっているのだから。」と記している。
(完)