太田述正コラム#10628(2019.6.20)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その56)>(2019.9.8公開)
金解禁が実施されたのは、1930年1月11日でしたが、それから10日後の1月21日から日本も参加してロンドンで開会されたのが補助艦制限を目的とする海軍軍縮会議でした。
これら二つの重大な出来事がこの時期に同時的に継起したことは、金本位制と緊縮政策、特にその大きな部分を占める軍縮政策との緊密な関連を示しているといえます。
⇒後で、三谷によって詳しい説明ないし典拠の開示があるのかもしれませんが、(軍縮が緊縮政策に資することは事実でしょうが、)「金本位制と・・・軍縮政策との緊密な関連」については、直感的には違うのではないか、という気がします。
金解禁から金本位制離脱への各国の動きをまず振り返ってましょう。↓
「1914年にはじまった第一次世界大戦により各国政府とも金本位制を中断し、管理通貨制度に移行する。これは、戦争によって増大した対外支払のために金貨の政府への集中が必要となり、金の輸出を禁止、通貨の金兌換を停止せざるをえなくなったからである。また戦局の進展により世界最大の為替決済市場であったロンドン(シティ)が戦火に晒され活動を停止したこと、各国間での為替手形の輸送が途絶したことなども影響した。・・・
その後1919年に<米>国が金本位制に復帰したのを皮切りに、再び各国が金本位制に復帰したが、1929年の世界大恐慌<もあって>再び機能しなくなり、1931年9月の<英国>を契機として1937年6月のフランスを最後にすべての国が金本位制を離脱した。 日本では、戦後に金本位制復帰の機会をうかがうも関東大震災などの影響で時期を逸し、1930年(昭和5年)に濱口雄幸内閣が「金解禁(金輸出解禁)」を実施したが、多額の貿易赤字に伴い多量の金流出が起り翌年犬養毅内閣が金輸出を再禁止した。<米>FRB議長<をやった>ベン・バーナンキは、金本位制から早く離脱した国ほど経済パフォーマンスが<良かった>ことを証明した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%9C%AC%E4%BD%8D%E5%88%B6
「第一次世界大戦・・・後<、英国では、>シティ<主導で>・・・1924年・・・金解禁した結果、・・・未曾有の金流出に見舞われ・・1931年9月・・・金本位制を離脱<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3
「満州事変後の、<英国>の金本位制離脱を契機とする三井・住友財閥などによる猛烈な「ドル買い」により大量に金が流出し、<日本の>金解禁政策も完全に行き詰まった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A4%BC%E6%AC%A1%E9%83%8E%E5%86%85%E9%96%A3-879833
つまり、金解禁(金本位制への復帰)は、国際金融世界が主導し、全列強が共通益であると信じてそれに同調した政策・・それが当時の国際環境下では誤った政策であったことが事後的に確定されるに至った政策・・であったのに対し、軍縮政策の方は、大戦後軍縮を求める列強共通の世論を背景にそのための列強間協議と銘打って、列強がそれぞれの国益を踏まえつつ潜在敵たる列強に対する相対的軍事的優位の確保を求めて行ったところの、いわば机上での戦争であって、金本位制と軍縮政策との間に緊密な関連があったとは私は思わないのです。(太田)
井上が浜口雄幸民政党内閣蔵相として行った懸案の金解禁政策は世界恐慌の波と重なり、国内に経済不況を招きます。
さらに金解禁実施の翌1931年9月、南満州権益の拡大を意図する関東軍が引き起こした中国東北部一円を制圧する軍事行動、満州事変によって、金本位制を支える緊縮政策の根幹(軍縮)が揺るがされ、結果として井上の金解禁政策は失敗に終わります。
同時に、それを促進し支持した国際金融資本の存立の基盤も揺らぎ始めることになりました。・・・
⇒三谷の論理は転倒しています。
国際金融資本が金解禁という誤った政策を推進し、これを受けて全列強が誤っているとは夢思わず金解禁を行った結果、全列強の経済パフォーマンスが押しなべて悪化したのであって、日本もその例外ではなかった、というだけのことだからです。
ついでに言えば、「南満州権益の拡大を意図する関東軍が引き起こした・・・満州事変」ではなく、(いわゆる北進論者と南進論者、或いは、私の言う、島津斉彬コンセンサス信奉者と横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者、のコンセンサスの下、)「安全保障上の観点から、ソ連(その保護国たるモンゴルを含む)と支那との間(満蒙)に防壁たる緩衝地帯を確保する目的で帝国陸軍が引き起こした・・・満州事変」です。(太田)
(続く)