太田述正コラム#10632(2019.6.22)
<三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』を読む(その58)>(2019.9.10公開)
しかし政党政治の復活の意図を抱きながら、高橋が試みた1930年代の自立的資本主義の実験は、脱政党政治の帰結としての二・二六事件において高橋の死と運命をともにし、その後の戦争体制に従属する資本主義へと変質していくことになります。
それは、自立的資本主義から排外的資本主義への転化の過程でありました。・・・
⇒五・一五事件後、挙国一致内閣ができ、憲政の常道が終了したことは確かですが、それは、日本の政党政治における、この政界の慣例
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E6%94%BF%E3%81%AE%E5%B8%B8%E9%81%93
が、評判を落としていて、日本が有事になったということもあり、この慣例をもはや維持できなくなった、というだけのことであって、日本において、三谷の言うように、五・一五事件後、政党政治からの決別が生じたわけでも、二・二六事件後、政党政治が死んだわけでも、ありません。
そもそも、憲政の常道の成立は、「元老の西園寺公望<が>、護憲三派(立憲政友会、憲政会、革新倶楽部)が勝利した第15回衆議院議員総選挙の結果をみて、それまで忌避していた憲政会総裁の加藤高明を総理大臣に推薦する決心をした。政局の安定のためには加藤を推すのが穏当と考えたからである。加藤は陸奥宗光の影響や自身の体験から、イギリスやアメリカの二大政党制を理想としていて、総選挙後に野党党首が組閣するという日本で初めての例を開いた。」(上掲)という背景の下で始まったものであったところ、これは、西園寺や加藤らが、「二党制の<米国>と<英国>が最も優れてい<て、>・・・一党制は独裁を、多党制は混乱をもたらす」、という、伝統的にアングロサクソン文明に劣等感を抱いてきたところの、フランス等の欧州文明諸国の(この場合は政治学者達等の)知識人達の思い込み
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%88%B6
を真に受けた結果に過ぎないのであって、大政翼賛会時代に淵源を持つところの、戦後日本の一党優位政党制(上掲)だって、新たな憲政の常道であると言ってよいのであり、もとより、それが本来的に非効率的である、などとは必ずしも言えますまい。
三谷は、このように、二大政党制、ひいては英米の政治経済体制、に、無条件の信頼を寄せているかのようでいて、それが徹底していない点で、いささか、我々が理解するのが困難な精神構造の持ち主であるように見受けられます。
というのも、三谷は、この時の日本の挙国一致内閣成立に否定的であるところ、これもまた、英国において先行して成立していた挙国一致内閣に倣ったもの(典拠省略)であったからです。
もう一点ですが、三谷は、その後、構築された日本の戦時体制に対して、「戦争体制に従属する資本主義」だの「排外的資本主義」だのといった悪口を投げかけているところ、戦時体制構築に藉口して構築され、戦後においても堅持されることとなったところの、日本型政治経済体制、の出現、や、その(機能する社会主義体制として空前の存在であるといった)意義から、完全に目を逸らしてしまっています。(太田)
日本はアジアにおいて歴史上最初の、そしておそらく唯一で最後の植民地を領有する国家となりました。
この場合の「植民地」とは、特定の国家主権に服属しながらも、本国とは差別され、本国に行われている憲法その他の法律が行われていない領土のことです。・・・
⇒一つの考え方ではあるけれど、そうすると、現在の香港やマカオは中共の「植民地」であるということになってしまうことと、西蔵地区と新疆ウィグル地区は中共の「植民地」ではないことになってしまうことからして、少なくとも、前者について、三谷がどう判断しているのか、知りたいところです。(太田)
憲法学者の美濃部達吉は、「植民地」を憲法上の「異法区域」とか「特殊統治区域」と呼んでいます。
また、政治学者吉野作造が唱えた植民地改革とは、まず「異法区域」に対して本国と同じ「法の支配」–いいかえればさまざまな近代憲法に共通する原理としての「憲政の本義」–を及ぼすことでした。・・・
日本が植民地帝国としての第一歩を踏み出したのは、日清戦争の前後です。
それは、<既に>見たように、日本の資本主義が不平等条約下の自立的資本主義から条約改正後の国際的資本主義へと転換した時期でした。
⇒「「自立的」資本主義」も「自立的資本主義から・・・国際的資本主義へ<の>転換」も、意味不明な文言であることを、ここでも力説しておきたいと思います。(太田)
日本は日清戦争によって台湾や澎湖諸島を植民地化し、日本の地図は変わりました。・・・
(続く)